江戸三十三観音巡り

2013年7月20日 (土)

江戸三十三観音巡り 第14回 金乗院

【所在地】豊島区高田21239
      東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」駅より徒歩3

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 今回は14番札所の金乗院(こんじょういん)をご案内します。 

 金乗院は、東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」駅3番出口から徒歩3分です。3番出口をでたところが目白通りで、これを東に70メートルほど歩くと十字路があります。十字路を北に向かえば雑司ヶ谷鬼子母神ですが、金乗院に行くには南に向かいます。

 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、山号は「神霊山」、寺号は「慈眼寺」といいますが、「金乗院」と通称されています。開基である永順というお坊さんが、本尊の聖観音菩薩を勧請して観音堂をつくったのが、金乗院の始まりだとされています。ご住職のお話では、永順の詳しい経歴はわからないようですが、文禄3年(1594)に没していることが記録に残っているとのことで、金乗院の創建はそれ以前の天正年間(15731592)の頃ではないかと推定されています。

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 この道はゆるやかな坂になっていて、「宿坂(しゅくさか)」と呼ばれており、鎌倉街道の名残りと考えられているようです。宿坂をくだると信号があり、信号の手前西側が金乗院です。右写真は、信号から見た「宿坂」です。左手が金乗院の山門で、写真中央右寄りに目白不動堂が写っています。

 当初は中野にある宝仙寺の末寺で、蓮花山金乗院と称しましたが、のちに護国寺の末寺になり、神霊山金乗院となったそうです。江戸時代までは、近隣の「木之花開耶姫(このはなさくやひめ)社」の別当も務めていました。
 しかし、昭和20413日の空襲により、本堂や徳川光圀の手によるものとされる木此花咲耶姫の額などが焼失してしまいました。ご住職のお話では、本堂裏手の高台にある墓地からみると、早稲田大学の大隈講堂まで一面の焼野原だったそうです。

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 現在の本堂は昭和
46年に再建されました。通常の参拝の際には、本堂内には昇らせていただけないのですが、今回は特別に昇らせていただきました。
5 本堂内は 右上の写真のようにかなり広く、200畳敷きの広さがあるそうです。その中央に、ご本尊様をお祀りした厨子が安置してありました。ご本尊の聖観世音菩薩は絶対秘仏で、御開帳の機会はないそうです。その厨子の隣には、奈良県にある豊山派総本山の長谷寺のご本尊十一面観音像を模刻した十一面観音像が安置されていました。

 金乗院は、目白不動明王が安置されていることでも有名です。そのため、関東三十六不動尊巡りの第
14番札所にもなっています。

6 目白不動明王は、もともとは金乗院のものではありません。1キロほど離れた文京区関口駒井町にあった新長谷寺(しんちょうこくじ)という寺院にあったものです。
 新長谷寺は、山号を東豊山(ひがしぶさん)といい真言宗豊山派の寺院でした。昭和20525日の空襲で焼失したため、金乗院と合併し、目白不動明王は金乗院に移されました。当時、金乗院のご住職が、新長谷寺の住職も兼務されていた縁によ
るものだそうです。目白不動明王を安置する不動堂は、山門を入って右手に建てられており(右上の写真)、コンクリート製の階段を登ってお参りするようになっています。

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新長谷寺の不動明王は断臀(だんぴ)不動明王と呼ばれ、高さ八寸の仏像ですが、秘仏で正月の28日のみ御開帳されます。縁起によれば、次のようなご由緒があるようです(左の写真が断臀不動明王ですが、「金乗院のしおり」から転載させていただきました)。

 弘法大師が唐より帰ったのちに湯殿山に参籠されたとき、大日如来が不動明王のお姿となって滝の下に忽然と現れ、大師に告げました。「この地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり。故に凡夫登山すること難し。今汝に無漏の浄火をあたうべし」。そして持っている剣で自分の左の臂(ひじ)をお切りになると、臂から霊火が盛んに燃えでて、仏身に満ちあふれました。そこで大師はそのお姿を二体刻んで、一体は羽後国荒沢に安置し、
1体は大師自ら護持されました。
 この言い伝えどおり、目白不動明王は、写真のように左肘の先から炎が吹き出しています。

 その後、下野国足利に住した某沙門が、これを感得して奉持していましたが、ある時に霊感を感じて、武蔵国関口の住人松村氏と相談し、ついに寺を開いて、本尊を移し安置しました。そして、地主渡辺石見守より藩邸の地の寄進を受けて、お寺を開山しました。これが新長谷寺の始まりとされています。


 以上が、金乗院さんから頂戴したしおりに書いているとともに、『江戸名所図会』にも記されている由来です。


 その後、元和
4年(1618)、大和長谷寺の第四世小池坊秀算僧正(1572-1641)が中興し、二代将軍秀忠の命により堂塔伽藍が建立され、また大和長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像を移し、新長谷寺と号しました。

8_2 さらに寛永年間、三代将軍家光は、とくに本尊断臀不動明王に目白の号を贈ったので、以後は江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、目白不動明王と称することになりました。またその辺り一帯を目白台と呼ぶようになります。
 元禄年間には、五代将軍綱吉及び同母桂昌院が篤く帰依し、たびたび参詣しています。堂塔伽藍も壮麗を極め、門前町家19軒、寺域除地1752坪と広大な境内がありました。『江戸名所図会』にも「境内眺望勝れたり、雪景もっともよし」と書かれています。

9_2  その新長谷寺も、戦災で焼失して金乗院に
合併されますが、金乗院の不動堂には御前立の不動明王(左上の写真) が安置されていて、通常の参拝の際には、御前立不動明王を参拝させていただけます。また、新長谷寺の不動堂には、かつて天狗の面があったそうです。平成23年にその天狗の面が復元され、不動堂に掲げられています。面は檀徒総代の方が、仏師田中文弥氏に依頼して作成し、寄進したものだそうです。

10_2  本堂の北側は高台で墓所となっていますが、そこに丸橋忠弥の墓があります。
丸橋忠弥は槍の名人で、慶安4年(1651)、由井正雪とともにいわゆる「慶安事件」を起こして幕府転覆を企てましたが、幕府に発覚して捕縛され、鈴ヶ森で処刑されました。
 忠弥の本姓は長曽我部秦氏でしたが、出羽山形出身の乳母の家丸橋家を継いで、丸橋忠弥と名乗りました。宝蔵院流槍術の大家で、お茶の水に道場を設けていましたが、由井正雪とともに、浪人救済のため、幕府転覆を企てたのです。

鈴ヶ森での処刑後、一族が密かに遺骸を貰い受け、紀州に埋葬しますが、一族の後裔である秦武郷が金乗院に移し、安永9年(1780714日に墓碑を建てました。忠弥のお墓をよく見ると、表上部に長宗我部氏の家紋である七つ方喰(かたばみ)が刻まれていますし、墓の裏面には「長曾我部秦盛澄」と刻まれています。

Resize_4  そのほか墓所入口には、天保2年(1831)、日本で最初の公開図書館といわれている『青柳文庫』を仙台に創設した青柳文蔵の墓もあります。また、境内には寛文6年(1666)に建てられた、不動明王の法形を現した庚申塔である「倶梨伽羅不動庚申」、寛政12年(1800)に建てられた鍔塚(つばづか)があります。

今回、金乗院さんお邪魔して、ご住職にお話を伺いました。アポイントのお願いをしたのは5月でしたが、目白不動明王の御開帳もありお忙しいとのことで、お話を伺うことができたのは、6月下旬のことでした。

11_2  お会いして、お忙しい理由がよくわかりました。ご住職の小野塚幾澄様は、平成
20年から平成24年まで 真言宗豊山派管長および総本山第85世化主(けしゅ)を勤められていました。平成22年には、天皇皇后両陛下の行幸啓(ぎょうこうけい)を賜ったとのことで、客殿には天皇皇后両陛下をお迎えする小野塚幾澄管長の写真が掲出されていました。上の写真が、その写真の前でお話しされている小野塚幾澄様です。そうした要職についていらっしゃったご住職ですから、忙しいのもむべなるかなと思いました。

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つは我が家は真言宗豊山派のお寺の檀家なのですが、自分の宗派の管長も知らない自分自身の迂闊さを恥じいった次第です。しかしながら、小野塚幾澄様はそんな無礼に怒られることもなく、たいへん上品で優しい物腰で、金乗院の歴史や目白不動明王について丁寧に説明してくださいました。

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ご住職にご説明いただいたなかに、中庭についての話があります。中庭は、戦災で植物などはすべて焼失しましたが、客殿を立てる際に池の大きさが少し小さくなったものの、姿形は元のままで、『江戸名所図会』に載っている当時の面影を残しているとのことでした。

13  上の写真にある左側の石灯篭は、新長谷寺にあったものだそうです。庭内には長谷寺から移植したというボタンも植えられていて、ご住職がたいへんお庭を大切にしている様子が窺えました。右の写真は、ボタンが満開になった光景です。この写真はご住職からご提供いただきました。

 また、客殿入り口には、石踊達哉画伯が描かれた「金乗院鎮守木華開耶姫(このはなさくやひめ)降臨之図」がありました。石踊画伯は、装飾的で独創性のある日本画を描いています。瀬戸内寂聴現代語訳『源氏物語』の装幀画でも有名ですし、世界遺産の金閣寺方丈の杉戸絵及び客殿格天井画も制作しました。伝統的な花鳥風月を、現代感覚で流麗な作品に昇華させる作風は、「平成琳派」と呼ばれて高い評価を得ています。

14 金乗院は、「木華開耶姫社」の別当でもありました。そのため、四季の花々に彩られた木華開耶姫が描かれているようです。200号の大作ですが、石踊画伯がこれほどの大きさのものを描かれることはなく、たいへん貴重なものだそうです。平成1011月に奉納されています。その大作の前にご住職に立っていただき、記念写真を1枚撮らさせていただきました。

今回、ご住職の小野塚幾澄様には、お忙しいなか貴重なお時間を割いていただき、親切にご説明いただきました。紙面を借りて、改めて御礼申しあげます。
 誠にありがとうございました。

2013年3月12日 (火)

江戸三十三観音巡り 第13回 護国寺

【所在地】文京区大塚5―40-1

      東京メトロ有楽町線「護国寺」駅より徒歩1分

 

 今回は、13番札所の護国寺をご案内します。      

護国寺は、東京メトロ「護国寺」駅1番出口から徒歩1分の至近距離にあり、出口を出ると目の前に仁王門があります。大和国長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の大本山で、正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)といいます。天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により創建されました。

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 5代将軍綱吉は、3代将軍家光の三男として生まれ、15歳で館林藩主となり25万石を領しました。さらに延宝8年(1680)5月、4代将軍家綱が40歳で亡くなると、家綱に実子がないうえ次兄の綱重も亡くなっていたため、三男の綱吉が5代将軍となります。

 綱吉の母桂昌院は、京都の商人仁右衛門の次女光子(幼名お玉)として生まれました。光子(お玉)は成長すると江戸に下って大奥に入り、3代将軍家光の側室になります。家光死去の後は、桂昌院と名乗りました。

 
桂昌院は、上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢に、深く帰依します。亮賢は、大和国長谷寺で修業した僧で、当時、霊験ある祈祷僧として有名でした。そこで、桂昌院が懐妊したとき、亮賢に占ってもらうと「この子は将来、天下を治める器である」とのことでした。喜んだ桂昌院は亮賢に安産祈祷を命じます。こうして無事に生まれた子が、のちの綱吉です。この後、亮賢は護持僧として桂昌院に仕えるようになりました。

 
綱吉が将軍になった翌年の天和元年(1681)に、桂昌院の願いにより、亮賢を開山に招いて将軍家が所有していた高田薬園の地に創建されたのが護国寺です。護国寺は、桂昌院の信仰する念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」をご本尊として、当初は将軍家の私的な祈願寺として建立されました。創建当初の寺領は300石でした。

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天和3年2月、桂昌院は初めて護国寺に参詣し、元禄3年(169011月には将軍綱吉が訪れます。その後、元禄7年には綱吉・桂昌院が一緒に護国寺に参詣し、寺領は加増されて600石になりました。

 桂昌院の護国寺への参詣は年2回が定例になり、生涯で15回参詣していて、そのうちの4回は、綱吉も桂昌院と一緒に参詣しています。

さて、護国寺と関係の深い護持院についても触れておきましょう。

護持院の前身は、筑波山にある知足院中禅寺の江戸別院でした。筑波山知足院中禅寺は、平安時代の延暦元年(782)に徳一大師により創建された寺院で、現在は坂東三十三観音霊場の 第二十五番札所になっています。

知足院は江戸からみて鬼門の方向にあるため、江戸城の鬼門守護として徳川家康の信仰を受けました。知足院の第7代住職となった光誉は、2代将軍秀忠の正室お江の生家である浅井家に縁があることから、知足院は寺領500石を家康から賜ります。こうして将軍家第一の祈祷寺となった知足院は、江戸にも別院を設けて将軍家の祈祷にあたりました。

2_medium_3貞享3年(1686)には、隆光が大和国長谷寺から知足院に入り、綱吉から深く帰依されて、元禄元年(1688)には寺領1500石となります。そして、神田に広大な敷地を与えられ、湯島から知足院別院を神田に移して大伽藍を建築しました。元禄8年には寺号を護持院と改め、幕府の第一の祈願寺となります。

隆光は、真言宗新義派の僧録、さらには新義派で初の大僧正に任ぜられるなど、綱吉の信頼を一身に集めていました。しかし、創建後29年経った享保2年(1717)正月、護持院は火災により、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も、堂塔一宇残らず焼失してしまいます。そのうえ再建が許されず、跡地は火除地とされて護持院が原と呼ばれるようになり、護持院は享保5年に幕府の命令により護国寺に合併されました。以来、観音堂を護国寺と称し、本坊を護持院と称するとともに、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねるようになります。

両寺の寺領は併せて2700石。幕府の祈願寺としての寺格を保ち、江戸市民からは江戸の名所のひとつとして親しまれました。しかし、明治になると、護持院は廃寺となって姿を消してしまいました。いっぽう、護国寺は廃寺を免れ、現在まで続いています。

 護国寺には、江戸時代の建築物が数多く残されていますので、それらをご紹介しましょう。

4_medium_2観音堂(本堂)

 現在の観音堂は、元禄10年(1697)に、半年余りの工期をかけて完成しまし た。当初の観音堂は、天和2年(1681)に建てられたもので、36坪という小規模な建物でした。元禄10年に建て替えられた観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物で、十四間十一間半(広さ161坪)の規模を誇ります。ちなみに、この観音堂の材木は紀伊国屋文左衛門が調達したものだそうです。

 観音堂は幸いにも関東大震災や戦災を免れて、元禄時代の姿を今に留めており、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。元禄時代の大建築物が東京に残っていることに驚かされるとともに、都内とは思えないような光景に心を打たれます。

☆如意輪観世音菩薩像

護国寺のご本尊様は、桂昌院の念持仏だった天然琥珀製の六寸五分の如意輪観世音菩薩像です。この琥珀製の観音像は、元禄13年(1700)に秘仏本尊として奥ノ院に移されました。そして、新たに平安時代の恵信僧都作と伝えられる木製の如意輪観世音菩薩像が祀られました。

木製の新しい観音像は、大老堀田正俊の母堀田栄隆尼により寄進された五尺六寸5_medium_4 の六臂の観音様で、毎月18日の御縁日だけに開帳されます。今回、この記事を書くにあたり、観音像の写真撮影を護国寺様にお願いしましたところ、護国寺様が撮影された写真の転載をお許しいただけました。右の写真は護国寺様のHPから転載させていただいたものです。

本堂内には、多くの仏様が安置されていますが、そのなかで文京区の文化財に指定されている仏像を三体、ご案内します。

なお、本堂内は撮影禁止ですが、今回は護国寺様の特別のご配慮によりご許可いただいた上で、写真撮影させていただきました。

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☆大日如来座像(上左)

檜の一木造りで、像の高さ44.1cmの座像です。11世紀後半から12世紀初め頃 の、古様をとどめた、やや地方的な仏師の作と推定され、平安時代後期の作とされています。小作りで童顔風の面貌をした仏像です。

☆地蔵菩薩立像(上中央)

檜造りの像の高さは95.4cmで、直立しています。左手に宝珠、右手に錫杖を持っており、平安時代後期の作と推定されています。頬がゆったりとふくらみ、肩はまるみをおびながら、浅く緩やかに刻まれた衣文に包まれた姿です。
☆不動明王像(上右)

 檜造りで像の高さは80.7cm、左手に羂索、右手に剣を握っています。鎌倉時代初期の作で、玉眼の技法、大きく歪めた口、思い切った頬の肉づけなどに鎌倉彫刻の特色がみられ、藤原彫刻から鎌倉彫刻への展開を考えるうえで重要な像とされています。ほとんど動きのない姿勢に、憤怒の形相を示す像です。

9_medium仏像以外にも、観音堂造営の記念として奉納された、徳川綱吉直筆の『悉地院 (しっちいん)』の篇額が本堂内に掲げられています。横3尺5寸、縦7尺の檜の板に刻まれたものです。綱吉直筆の額が残されていることに驚きました。

10_medium_2  また、「黒馬図」をはじめとする、16面の大きな絵馬も掲げられています。「黒馬図」は黒馬が軽く走っている図柄の大絵馬で、本堂が建立された元禄10年(1697)に製作されたものです。筆者名桃設、寄進者吉田則安となっていますが、その詳細は不明のようです。

 

1_medium_3仁王門

 仁王門は、不忍通りに面して建っています。切妻造り、丹塗りの八脚門で、桁行は11.5m、梁間6m、軒高5m、棟高5mあります。建立は、元禄10年に造営された観音堂(現本堂)よりやや時代を下ると考えられているようです。

正面両脇間には金剛力士像(向かって右に阿形、左に吽形)が、門の裏側両脇には仏法を守る仏像である二天像(増長天、広目天)が安置されています。 

12_medium不老門 

 不老門は、仁王門をくぐってまっすぐ本堂(観音堂)へとつづく石段の中腹にあ り、中門の役割を果たしています。昭和13年4月に三尾邦三氏の寄進により建立されたもので、護国寺境内では比較的新しい建物です。

鶴は千年、亀は万年といわれように、この門をくぐれば病気にならず、長寿の願いが叶うといわれる門で、形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものだそうです。正面に高く掲げられている「不老」の二字は徳川家達公のご執筆で、両脇のツツジやサツキの花が咲く季節には、一段と鮮やかです。

 なお、石段の下の左右には水舎があり、ここには桂昌院により寄進された手水水盤が置かれています。この手水水盤は、元禄10年(1678)に製作されたと考えられています。

   

13_medium_2大師堂 

 本堂手前東側の一段低くなった場所に大師堂があります。大師堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に修理して、現在地に移築して大師堂としたものです。擬宝珠(ぎぼし)には宝永2(1705)、正面前方の石灯籠には寛政2年(1790)の銘があります。いずれも旧大師堂時代のものだそうです。

14_medium鐘楼(付梵鐘) 

 本堂の右手手前には鐘楼があります。鐘楼形式のなかでも格式の高い袴腰付重層 入母屋造りという形式で造られていて、江戸時代中期の建立とのことです。袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げでできています。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれていて、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼は天保期から存在していたことになります。

15_medium  鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、現在は本堂内部の南西隅に吊るされています。銘文には、徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているそうです。本堂隅にありますので、見落とさないように気をつけてください。

16_medium月光殿        

 月光殿は、もと大津三井寺の塔頭、日光院客殿を移築したもの で、国指定重要文化財です。桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を行なっています。桃山期の書院風建築の代表的なもので、床の間の壁画は狩野永徳の筆と伝えられ、水墨で蘭亭曲水の図が描かれています。ほかの襖絵は狩野派の絵師による花鳥図が描かれていたそうですが、現在は原美術館が所蔵しています。

 このほか、護国寺の広大な境内には、三条実美、山県有朋、大隈重信、山田顕義はじめ、多くの有名人が眠る墓地があります。

 

 最後になりますが、この記事を書くにあたり、本堂内の写真撮影を許可していただくなど大変ご配慮をいただきました護国寺様に、この場を借りて改めて御礼を申しあげます。誠にありがとうございました。

 

2012年12月12日 (水)

江戸三十三観音巡り 第12回 伝通院

【所在地】文京区小石川3丁目14-6
       東京メトロ丸の内線「茗荷谷」駅より徒歩16分
       東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」駅より徒歩12分


 この秋は、毎日文化センターさんの講座に加えて文京学院大学さんの講座でのガイドがあったため、その準備で忙しくて、江戸三十三観音めぐりの記事が書けませんでした。久しぶりに、江戸三十三観音めぐりについて書きましょう。今回は、小石川にある12番札所の伝通院です。

Medium_5  伝通院は、東京メトロ「茗荷谷」駅からだと16分程度、「後楽園」駅からだと12分程度の距離にあります。どちらの駅からも、都バスを利用して「伝通院前」停留所から歩けば2分ほどです。
 正式名称を無量山伝通院寿経寺といいますが、通称伝通院と呼ばれています。「でんつういん」と清音で呼ばれることが多いのですが、正しくは「でんづういん」と濁音です。

 もともとは、南北朝時代の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉上人が開山した浄土宗のお寺でした。開山当時は、小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番の宗慶寺がある場所)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。

 それから約200年後の慶長7年(1602)8月、徳川家康の生母於大(おだい)の方が75歳で伏見城で亡くなった際に、芝増上寺の存応(ぞんのう)上人と相談した結果、この寿経寺を菩提寺とすることになりました。そして、極楽水から現在地に移転し10万坪の面積をもつお寺を造営して、於大の方の法名「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」にちなんで「伝通院」と名付けられたのです。存応上人の高弟正誉郭山和尚が住職となり、幕府から600石を賜っています。

Medium_2  伝通院は、享保6年(1721)、享保10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、その都度、再建されました。しかし、昭和20年5月25日の大空襲で、すべての建物が焼失しました。その後、昭和24年に本堂を再建し、さらに昭和63年に建て替えられたものが、現在の本堂です。
 また、戦災で焼失した山門が、平成24年3月に67年ぶりに再建されました。総ひのき造り、間口10.2メートル・奥行4.8メートル・軒高8.9メートルで、両脇には練塀も造られています。山門の2階には、釈迦如来像が安置されていて、毎月第三土曜日には公開されているそうです。

Photo  伝通院のご本尊は阿弥陀如来です。戦前まで本堂に安置されていたご本尊は戦災で焼失したため、開山堂に安置されていた阿弥陀如来様を本堂に安置なさったそうです。阿弥陀様は江戸時代の作とのことです。
 観音札所としての本尊は無量聖観世音菩薩といいます。この観音様は、昭和51年に信者の方が寄進なさったものだそうで、観音様の前に、寄進者のお名前が掲げられていました。

 このお寺は、教育面でも大きな足跡を残しています。
 江戸時代はじめの慶長18年(1613)には、増上寺の学問僧300人が伝通院に移されて、関東十八檀林(僧の学問修行所)の上席と位置づけられていました。多い時には、学寮に席をおくもの千人以上という状況だったそうです。
 その伝統から、明治24年、芝三縁山増上寺から浄土宗学本校(現在の大正大学の前身)が伝通院へ移され、さらに明治25年には伝通院境内に淑徳女学校が設立されています。淑徳女学校は、現在は淑徳SC中等部・高等部となり、境内脇に校舎を構えています。

 では、伝通院に葬られている人たちについてみていきましょう。

【於大の方】
 伝通院の名前の由来になっている於大の方は、享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野  忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(のちの徳川家康)を出産しPhoto_5ます。
 ところが、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属しました。そのため、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すことになり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されます。

 その後、於大の方は兄信元のすすめによって、天文17年(1547)、尾張国阿久居の城主久松俊勝に再嫁しました。しかし、於大の方は、家康が織田方の人質になってからもつねに衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられています。また、家康が今川義元の人質として駿府にいた際にも、ひそかに使いを送って日用品を届けたと言われています。

 於大の方は、久松俊勝との間に、康元、康俊、定勝の3人の男の子をもうけました。天下統一後、家康は久松家を親戚として尊重します。これが久松松平家です。
 久松松平家は、伊予松山藩や、幕末には桑名藩の藩主になりました。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子に入り、白河藩3代藩主となって、のちに老中となったのです。

 於大の方は、夫の久松俊勝が天正10年(1582)に亡くなると、天正16年(1588)に髪をお ろし、「伝通院」と号しました。上の肖像画は、永禄3年(1560)、母華陽院の死を悼んだ於大の方が、母の像とともに描かせた肖像画です。ふたりの肖像画は、一対として刈谷市の楞厳寺(りょうごんじ)に納められたものといわれています。
 肖像画は、本堂西側にある観音堂の中にある休憩所においてあります。
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 於大の方は、家康の天下統一を見届けたのち、慶長7年(1602)8月、家康の滞在する伏見城で亡くなりました。家康は、於大の方の死を悼んで京都の智恩院で葬儀を行ない、江戸に遺骸を送って、伝通院に納骨しました。
 於大の方のお墓は、本堂西側にある、東向きに立った大きな五輪のお墓です。

【千姫(天樹院)】
 伝通院には、有名な千姫をはじめとして、将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されています。千姫は2代将軍秀忠の長女で、母は大河ドラマ『江~戦国の姫たち~』の主人公の江(崇源院)です。

 千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃はまだ豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのです。
 慶長3年(1598)、病床にあった豊臣秀吉は、秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。ふたりの母親である淀君とお江は姉妹ですので、ふたりは従兄弟の関係にあたります。秀吉が死んだのちもこの婚約は守られ、慶長8年(1603)、7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎます。なお、家康がこの政略結婚を仕掛けたという説もあります。

 家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣の際、千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜に脱出して家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。
 翌元和2年、千姫は伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁します。千姫20歳、忠刻21歳でした。

 大坂城脱出の際、家康が「救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り、千姫を救出したという説があります。彼はこのとき顔に火傷をおい、千姫はそれを嫌って本多忠刻に嫁いだので、これに憤った坂崎出羽守が騒動を起こし、殺害されたというのです。
 しかし、これには異説も多く、救出したのは坂崎出羽守ではないという説もあり、千姫の公家への嫁入りをまとめた坂崎出羽守が、面目をつぶされたことを怒って騒動を起こしたという説もあります。

 元和3年に忠政が姫路へ転封となったので、千姫は忠刻とともに姫路城に住むことになります。千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。寛永3年(1626)、30歳になった千姫は勝姫とふたたび江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫とふたりで江戸城内の竹橋御殿に住みました。

 ところで、忠刻が亡くなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡も、千姫の乱行をうたったものと言われています。しかし、これはまったく根拠のない話のようで、こんな俗説がなぜたてられたのか、疑問に思います。

 寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)はひとり暮らしになりまし た。正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方(のちの順性院)が、三男綱重を懐妊しました。この時、家光は厄年にあたっていたため、災厄を避けるために千姫(天樹院)を綱重の養母としました。そのため、Medium_7千姫はお夏の方(のちの順性院)や綱重と暮らすようになります。

 千姫(天樹院)は、寛文6年(1666)に70歳で亡くなりました。法事は、千姫が養母となっていた綱重が執り行なったそうです。千姫も伝通院に葬られており、本堂西北の少し低くなった場所に、五輪の大きなお墓があります。

【家光の正室孝子(本理院)】
 伝通院には、於大の方や千姫のほか、たくさんの徳川家関係者が葬られていますが、その多くは、将軍の正室や側室です。3代将軍家光の正室だった鷹司孝子(のちの本理院)も、伝通院に埋葬されています。

 鷹司孝子は、はじめて摂関家から将軍正室に迎えられた人です。3代将軍家光は、「生まれながらの将軍」だったため、大名より位の高い摂関家から正室が求められたのです。これ以降、将軍の正室は、摂関家または宮家から選ばれるようになりました。
 孝子は慶長7年(1602)に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。元和9年(1623)12月に西の丸に入り、寛永2年(1625)に将軍家光と正式に婚礼を行なって御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。

 しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はなかったようです。孝子は本丸大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住まされ、「中の丸殿」と呼ばれました。幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。このため、当然のごとく、家光との間に子どもはありませんでした。
 このように夫婦仲が円満でなかった理由は、家光と孝子の間に子どもができて、朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が、作為的に不仲にしたという説や、家光が男色好きで孝子を顧みなかったという説など、いろいろあげられています。Medium_8

 慶安4年(1651)4月に家光が48歳で亡くなると、孝子は落飾し、「本理院」と名乗ります。孝子は延宝2年(1674)に、73歳で亡くなりました。
 孝子のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に、南に面して立っています。

【浪士組】
 伝通院は、新選組の母体となった浪士組が結成された場所としても有名です。
 浪士組結成のきっかけをつくったのは、出羽国庄内藩出身の清河八郎です。文久2年8_medium(1862)、清河が時の幕府政事総裁(従来の大老にあたる役)の松平春嶽に、急務三策(①攘夷の断行、②大赦の発令、③天下の英材の教育)を建言しました。尊攘志士に手を焼いていた幕府は清河の建言を採用し、文久3年2月4日、浪士組が小石川伝通院の塔頭処静院(しょじょういん)において結成されることになります。浪士組の山岡鉄舟と親しかった処静院の住職が、結成のための場所を提供したと言われています。

 浪士組は、当初の予定では50名を定員としていましたが、清河による仲間の勧誘もあって、最終的には234名の浪士が集まります。浪士組の中には、のちに新撰組を結成する芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司なども入っていました。浪士組は2月8日に江戸を出発し、京都に向かいました。

 処静院は現在の伝通院の西側にありましたが、廃寺となってしま9_mediumいました。処静院があ った場所の近くには、現在、文京区教育委員会の説明板が設置されています。また、伝通院の山門の脇には、処静院の門前に設置されていたという「戒律を守らない人は境内に入ってはいけない」という意味の「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた石柱が残されています。
 清河八郎のお墓も、この伝通院にあります。

2012年9月28日 (金)

江戸三十三観音巡り 第11回 円乗寺

【所在地】文京区白山1-34-6 都営地下鉄三田線白山駅より徒歩10分

 円乗寺は、都営地下鉄「白山」駅A1番出口から徒歩2分の距離にあります。

Photo_14 旧白山通りから旧中山道に向かう上り坂(「浄心寺坂」別名「於七坂」)を少し入ると北側に参道があります。参道入り口には、「江戸三十三観音札所第十一番聖観世音菩薩」の看板があり、「お七地蔵堂」もありますので、すぐにわかります。

 江戸時代には、境内が1770坪もあったそうですが、戦後期の混乱もあって、現在は、両側がマンションや住宅に囲まれた細い参道となっています。

  

Photo_22 円乗寺の入り口西側に「お七地蔵堂」があります。この「お七地蔵堂」に祀られている「八百屋於七地蔵尊」は、八百屋お七が在世の時に所持していた地蔵尊と伝わっているものです。昔から縁結び・火伏の御利益があると信じられていて、現在でも多くの人々の信仰を集めています。

Photo_30 円乗寺の創建時期は、文京区の説明では天正9年(1581)に開創されたとありますが、「御府内寺社備考」という書物には元和6年(1620)川越の喜多院に住する宝仙法印により起立されたとも書かれていて、明確なことは不明のようです。

 当初は、本郷の加賀金沢藩の御屋敷(現在の東京大学)の近くにあり、密蔵寺といいましたが、後に円乗寺と寺号が変わりました。明暦3年(1653)に起きた明暦の大火のため本郷の用地が収公されたため、現在地に移転しています。

  

Photo_24  参道をまっすぐ進むと、正面に本堂があります。戦災で焼失してしまい、戦後再建されました。


 円乗寺のご本尊様は釈迦牟尼仏です。
本堂中央に鎮座していらっしゃいました。その脇に札所ご本尊様である聖観世音菩薩像が鎮座されています。

5_3戦前、円乗寺には秘仏の聖観世音菩薩像がありましたが、戦災で焼失してしまい、この観音様は、「昭和新撰江戸三十三観音札所」が昭和51年に再興されるのに合わせて造立されたものだそうです。

そして、ご本尊の脇には、八百屋お七の御位牌がありました。「妙栄禅定尼」と八百屋お七の戒名が書かれています。
 本堂内には、八百屋お七の絵も飾られています。

Photo_26 円乗寺は、なんといっても八百屋お七のお墓があることで有名です。
そこで、「お七火事」や「八百屋お七」について書いてみます。

 天和2年(1682)12月28日に大火事が発生しました。この大火事は天和の大火(てんなのたいか)と呼ばれ、江戸十大大火の一つに挙げられほどの大火でした。この火事が俗に「お七火事」とも称されます。駒込の大円寺から出火したとされ、28日正午ごろから翌朝5時ごろまで、下谷・浅草・本所・本郷・神田・日本橋まで延焼し続けました。

 この大火で焼失した大名屋敷は、火元近くの加賀藩、大聖寺藩、富山藩の各前田家や村上藩榊原家、津藩藤堂家、対馬藩宗家など73家。旗本屋敷は166家、寺院は霊巖寺など48ケ寺、神社47社という数字も残されています。
亡くなった人は3500名余と推定されています。
 
松尾芭蕉は、このころ深川の芭蕉庵に住んでいましたが、芭蕉庵もこの天和の大火で燃えています。

この火事が「お七火事」とも呼ばれるのは、翌年にお七の放火による火事が起き、これと混同して「お七火事」と呼ばれるようになったと思われます。

 お七の放火による火事は、ボヤ程度のもので、大火というほど大規模なものではなかったようですが、あまりにも印象が強かったのでしょう。大火だろうという思い込みから、前年の大火が「お七火事」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

7_4 八百屋お七については、有名な話ですが、井原西鶴の『好色五人女』に書かれている内容をはじめ、諸説があります。その中で、最も事実に近いのだろうと言われているのが『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』です。

 
 それによると、お七の生家は本郷の森川宿(現在の東大正門向かい側の北側辺り)の八百屋でした。父は市左衛門(『好色五人女』では八兵衛となっている)といい、加賀金沢藩前田家に野菜を納めるほどの大きな八百屋だったようです。


 天和の火事で、森川宿に住んでいた八百屋の市左衛門の一家も焼け出されました。そのため、市左衛門は女房や娘のお七と一緒に、駒込の円乗寺(『好色五人女』では吉祥寺となっている)に避難しました。

菩提寺と書いたものもありますが、円乗寺の市原ご住職によると、円乗寺はお七の家の菩提寺ではないとのことであり、円乗寺が駒込に移転する前はお七の家と近い本郷にあったので、お七一家は円乗寺に避難したのではないだろうかということです。この時にお七は円乗寺の寺小姓、生田庄之助(『好色五人女』では小野川吉三郎、文京区教育委員会の案内板では「佐兵衛」となっている)と恋仲になりました。


 やがて自宅が再建され、お七は家に戻りましたが、恋仲になった生田庄之助に会いたい一心で、天和3年3月2日、付け火をします。
付け火はすぐに発見され、消し止められました。お七は付け火の道具を持ってさまよっていたため、すぐに捕えられました。

火事はボヤで済みましたが、江戸時代は放火は大罪です。放火の罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火あぶりの刑にされました。


 この時、お七は16歳でした。江戸時代は、罪に問われるのは15歳以上であり、15歳未満であれば無罪となります。
町奉行の甲斐庄(かいしょう)正親は、なんとかお七を助けてやりたいと思い、「14歳だろう」と問います。しかし、お七は正直に16歳ですと答えたため、鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられてしまったという話が伝えらえています。
 
ただし、実際に八百屋お七を捕まえたのは、火付改役(ひつけあらためやく:後の火付盗賊改役)の中山勘解由(なかやまかげゆ)です。


 このお七の放火は、さまざまな創作物で取り上げられ、大変有名になりました。
そのうち最も有名なものが、井原西鶴が書いた小説『好色五人女』です。 

また、歌舞伎・浄瑠璃にも数多くの作品があります。代表的なものとして「八百屋お七歌祭文」「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」があげられます。さらに、「お七」という落語にもなっています。

その八百屋お七のお墓が、円乗寺参道西側にあります。昔は屋根がなかったそうですが、現在は屋根が造られています。

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9_7 お墓は
3基あります。中央は、円乗寺の住職が供養のために建てたものです。お墓が丸く削られていますが、これは、一時期、お七のお墓を削った石粉をもっていると御利益があるという噂がひろまり、墓石が削られてしまったと市原ご住職が話されていました。

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右側は、寛政年間に歌舞伎役者の岩井半四郎が建立したお墓です。岩井半四郎がお七を演じた縁で、建立したものです。

 
墓碑正面に「妙栄禅定尼」とお七の戒名が刻まれています。墓碑右脇に建立時期が刻まれていますが、寛政という文字は読み取れましたが、建立した年は不明でした。


11_2 左側のお墓は、近所の有志がお七の270回忌法要のために建てたものです。


 お七のお墓には、いつお参りしてもきれいな花が手向けられています。円乗寺の人が手向けているようですが、大変気持ちの良いものです。
また、お墓の脇にはノートが置かれていて、参拝者の願いごとや感想が書かれています。願いごとは、恋愛成就と諸芸上達が多いようです。

 最後に、円乗寺で珍しいおみくじを紹介されました。水で溶けるおみくじです。順に写真を撮りましたので、ご覧ください。

①おみくじは細く丸められています(写真左上)
②ほどいたおみくじを、つくばいに入れます(写真右上)

③おみくじがだんだん水に溶けていきます(写真左下)
④あっというまに、おみくじが水に溶けてしまいました
(写真右下)

12_613_5
14_615_5   
 
 
八百屋お七のお墓参りした後に、試してみてはいかがでしょうか。

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2012年7月30日 (月)

江戸三十三観音巡り 第10回 浄心寺

 浄心寺は、東京メトロ「本駒込」駅 番出口から歩いて約5分です。

 本郷通りに面しています。Photo山門脇にある大きな布袋様が目安になります。

 この布袋様、昭和50年頃に建設されたものです。

  布袋様の脇にある門を入ると正面に本堂があります。

 

 浄心寺は、正しくは「湯嶋山定光院浄心寺」と言います。

 寺伝によれば、浄心寺は、元和2年(1612)に還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建されました。

還蓮社到誉文喬和尚の生まれ等は明確にはわかりませんが、増上寺で修業し、館林善導寺に移った後、駿河赤坂で浄心寺を起立しました。その何年かに後江戸に移り元和2年(1616)浄心寺を起立しました。

そして、元和7年(1621)に浄心寺でなくなりました。年齢60有余歳でした。

 浄心寺は畔柳(くろやなぎ)助九郎が大旦那となり創建されました

 畔柳(くろやなぎ)助九郎は、寛政重修諸家譜によれば、徳川家康の父松平広忠の頃から松平家に仕え、3代目の助九郎武重が、黒柳そして畔柳と名のったようです。Photo_2

 畔柳氏は、歴代助九郎を名のっていますが、浄心寺の開基は助九郎武重といいます。

 畔柳助九郎は、家康に仕え、家康のすぐ傍で数々の戦さを戦っています。

特に三方ヶ原の戦いでは、負け戦となり、家康が自ら武田軍に斬りこもうとしますが、それを推しとどめたのが夏目吉信です。夏目吉信は、家康が乗る馬の轡(くつわ)を浜松城に向けたあと、そばにいた畔柳助九郎に家康をお守りするようにと言い残して武田軍に斬りこんでいきました。

畔柳助九郎は家康の御馬のそばを離れずお守りし家康は浜松城へ無事帰還することができました。このことにより、後に金の扇子を家康より賜っています。

この話は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者湯浅常山が書いた「常山紀談(じょうざんきだん)」の中に書かれています。

 

 助九郎は御中間頭までなっていますが、家康への報恩のため、湯島の拝領地の一部を割り出して浄心寺を建立したと伝えられています。

 湯島の内に建立されたことから、山号は湯嶋山(とうとうさん)と名付けられました。

 しかし、天和2年(1682)12月28日に発生した江戸の大火いわゆる「お七火事」といわれる大火で類焼し湯島広小路とするため浄心寺の用地が召し上げとなり、湯島での替地は難しく、駒込に600坪の借地を拝領し 翌年、駒込に移転しました。

 

 浄心寺は、昭和20年の戦災で、本堂等を焼失しました。現在の本堂は昭和48年に再建されたものです。 

Photo ご本尊は、阿弥陀如来像です。

 脇侍として観音菩薩像と勢至菩薩像が安置されています。

 ご本尊の阿弥陀如来像は昭和48年に、観音菩薩像は昭和30年代後半、勢至菩薩像は昭Photo_3和40年代初期に造られました。

 阿弥陀如来立像の高さは俗に「丈六」と呼ばれる1丈6尺((約4.85メートル)もある大きなものです。

このうち向って左側の観音菩薩像が、札所ご本尊様で「子育て桜観音」こと十一面観世音菩薩像です。

 この三体の仏像は、高村光雲の弟子である阿井瑞岑師と先崎栄伸師によって制作されたものです。Photo_4

 また、内陣右脇には虚空蔵菩薩像も安置されていました。

また、本堂内には、重さ500キロもある木魚が置かれています。日本国内で一番大きいと言われている木魚です。

 この日本一大きな木魚は、大きすぎるので法要の際などには使いませんが、実際叩くと鳴るそうです。 

 

 Photo_5 境内の入り口、本郷通りの脇に、小さな広場が作られていて、そこに春日局ゆかりのお地蔵様が祀られています。

 浄心寺がある場所は、元は春日局のお花畑があった場所でした。地蔵菩薩は春日局が哀願していたものだそうです。

 

 墓地には、佐々倉桐太郎(ささくら とうたろう)のお墓があります。

 佐々倉桐太郎は、咸臨丸で勝海舟と一緒に渡米をした人物です。Photo_7

佐々倉桐太郎は、浦賀奉行所の与力でした。嘉永6年(1853)ペリー来航のとき応接方をつとめた後、長崎海軍伝習所の第1期として軍艦操練技術を学び、伝習終了後、築地の,軍艦操練所教授方となりました。

そして、安政7年(1860)幕府遣米使節に随伴した咸臨丸に乗艦して渡米しました。この時の艦長が勝海舟です。

維新後は海軍兵学寮につとめています。明治8年12月17日に46歳でなくなり、浄心寺に埋葬されました。

 

Photo_8  また、本堂へ向かう参道の脇に、中曽根元首相が寄進した梵鐘があります。

 この梵鐘、浄心寺お出入りの大工さんが中曽根元首相とお付き合いがあった縁で浄心寺に寄進されたのだそうです。

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2012年6月27日 (水)

江戸三十三観音巡り 第9回 定泉寺

今日は、江戸三十三観音巡りの9番札所の定泉寺をお参りします。

Photo  定泉寺は、東京メトロ南北線「本駒込」駅2番出口を出て本郷通りを挟んだに西側にあります。

 縁起によれば、蜂屋九郎次郎善遠が旧本郷弓町(文京区本郷)にある「太田道灌の矢場跡」を賜り、元和7年(1621)堂宇を建立しました。後に増上寺第18世となる定譽随波上人を開山に迎えました。

 蜂屋善遠は蜂屋善成の子供として生まれ、慶長年間から徳川秀忠に仕えました。

 御近習番や御小姓組など勤め、しばしば加恩があり、1000石を知行しています。

寛永10年8月29日に41歳でなくなりました。

なお、「寛政重修諸家譜」では、定泉寺の開基は父の善成となっています。

開山の定譽随波上人は、念仏弘通に邁進され豪放Photo_2の中にも繊細で信の徳が高く、人々に敬愛された上人であったようです。

定泉寺の院号は見性院と言いますが、これは定譽随波上人が己に具わる仏としての本性を見ぬくという意味で付けられた院号で、開基の蜂屋善遠の院号に基づくものです。

定泉寺は、明暦3年1月(1657)に本郷弓町の近くの本郷丸山から起きた明暦の大火(いわゆる振袖火事)により焼失してしまいました。

Photo_4 その後、現在地に移転し、広大な寺域に本堂・庫裏・鐘楼・山門が建てられました。

鐘楼に掛けられた鐘は江戸の丹波守藤原重正が造ったもので駒込の名鐘の一つといわれましたが、現在は残されていません。

定泉寺は、幸いなことに江戸時代を通じて火災にあいませんでしたので、戦前までは土蔵造りの本堂が残っていました。

しかし、昭和20年5月の東京大空襲により建物を焼失してしまいました。それにもかかわらず、ご本尊・過去帳など、開山上人のお名号は守り、現在に至っているとのことです。

戦災に焼失したものの、檀信徒の力により昭和27年5月27日に本堂が再建されました。これが現在の本堂です。

ご本尊は阿弥陀如来像です。制作時期ははっきりしないものの江戸時代初期の作と言われています。

札所ご本尊は、ご本尊様の脇に安置されている十一面観世音菩薩像です。

この観音様は、定泉寺19世住職進誉徳龍上人が修業された鈴鹿市白子本町にある終南山悟真寺という浄土宗知恩院派のお寺からをお迎えしたものだそうです。

 4

常泉寺には、石造の六阿弥陀仏があります。本堂の前に左手にある六阿弥陀が刻まれた宝篋印塔です。六阿弥陀は六道を照らす役目をもった仏様です。台座には元禄9年と刻まれています。5

また参道右手には五重の層塔があります。これも江戸時代の作で、五重の層塔は天地宇宙を表しているそうです。

 参道左手は墓地となっていて、開山の蜂屋家の墓もあります。

 また、中ほどには、中興開山の登譽見道上人の墓があります。珍しい家形の墓石で、その中に内仏として観音さまが鎮座 しています。 6

7_3 また、江戸時代の書家「林家川崎」の墓もあります。

「林家川崎」と刻まれた墓碑銘の文字は、川崎本人が書いたものだそうです。

 

 門を入ると左脇に 夢現地蔵菩薩尊と参道左脇に閻魔大王碑がありま10す。さらに参道脇に、清林寺開創期からある井戸があります。この井戸は現在は石蓋がされていますが、終戦後までは、寺に関わる人々の「生命泉」だったそうです。

夢現地蔵菩薩は、5代将軍綱吉の時代、定泉寺の第2世住職登譽見道上人の頃、檀信徒であった根津に住む村井家当主が、貞享2年(1685)8月8日に夢のお告げを得て床下より地蔵菩薩像を掘りあてましたが、これを定泉寺に合祀したものだそうです。

 夢現地蔵の名前のごとく夢を現実にしようとう向上心を願う尊像として多くの人々に崇められています。

毎月8の日が縁日となっていて、江戸時代、縁日には近くにやっちゃば(土物店)もあり大勢の参拝客があったようです。毎月8の日には開扉されます。

また、定8泉寺には子育てと稚児の守り仏として「夢現塚」もあります。

 なお、非公開ですが、東京電燈の大正時代から昭和初期の木柱が、お寺の内に残っているそうです。

 

江戸三十三観音霊場の9番札所ですので、本堂に上がって、ご本尊様と札所ご本尊様を参拝させて9いただきました。その帰りに思いがけずお供物をいただき感激しました。 





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2012年6月 6日 (水)

江戸三十三観音巡り 第8回 清林寺

8番札所 清林寺(東京メトロ本駒込駅1番出口徒歩5分)

 

 Cimg0129 江戸三十三観音めぐり8番札所は清林寺です。

・清林寺は、東京メトロ本駒込駅から徒歩5分弱のところにあります。

浄土宗のお寺で正式には東梅山花陽院清林寺と言います。

清林寺の創建は、いただいた資料では、次のように書かれています。

清林寺は文明15年(1483)で、鎌倉光明寺八世貫主の祐崇上人によって開山されました。

清林寺を創建した祐崇上人は、応享11年(1439) 13歳で鎌倉光明寺七世照山慶順上人の下で剃髪受戒されました。

その後、佑崇上人は、若干27歳で千葉の木更津に選択寺を建立しました。

それ以来祐崇上人は、京都山城に永養寺を起立し、文明14年(1482)に鎌倉光明寺八世貫主となりました。 

 祐崇上人の代となってからの光明寺は、関東六派の本山号を賜った後、慶長13年(1608)、徳川家康によって関東十八檀林の首位とされ、関東における浄土宗の中心となりました。

その祐崇上人が鎌倉光明寺八世貫主となられてすぐ建立した寺がまさしく清林寺でした。

明応4年(1495)に祐崇上人は、宮中に上洛参内し、天皇陛下に21日間におよぶ阿弥陀経講義をされたこともあります。

 

 その後の約100年間の清林寺の歴史は文書が焼失しているためはっきりしないそうです。

 江戸時代に入って、清林寺は台蓮社光誉天歴上人によって再興されました。

光誉天歴上人は、徳川家康が江戸に入府した際にお祝いを言上し、松竹梅の鉢植を一鉢ずつ拝受しました。その鉢植を、それぞれ、天下栄の松、万年の竹、相生の東梅と呼んだことから、寺号が東梅山陽花院清林寺と命名されました。

 また、清林寺の寺紋は梅の紋ですが、この寺紋もこの由緒に基づくものだそうです。

 清林寺は当初、武蔵国豊島郡 神田三河町四軒町にて境内1080坪の拝領を受けて創建されましたが、その後、慶長18年(1613)に神田三河町四軒町から神田川柳原移転しました。

さらに、慶安元年(1648)に、現在清林寺が所在している駒込蓬莱町(現東京都文京区向丘2-35-3)に移り、創建時の如く1080坪を拝領し 今日に至っているそうです。

 清林寺のご本尊は阿弥陀如来像です。昭和20年の東京大空襲で本堂書院等すべてを焼失してしまいましたが、ご本尊阿弥陀如来は納骨堂の地下に安置していたため焼失を免れました。

そして、昭和24年に仮本堂を建て、昭和33年に本堂を再建しました。これが現在の本堂です。

このご本尊様の阿弥陀様は非公開ですので拝観できませんが、12世紀後半から13世紀初めの特色をもったものだそうです。

阿弥陀様の脇侍が観音菩薩像ですが、この観音菩薩像は江戸時代の製作とのことです。2Photo

しかし、この観音様も非公開ですので拝観できません。

そこで札所観音様が 庫裏の脇に鎮座しています。

札所ご本尊の観音様は、聖観音菩薩像です。

お参りや御朱印をいただくのに近くて便利です。

札所ご本尊様は写真撮影してもよいとのことでしたので、アップで撮らせていただきました。

 

4 また、境内にある水屋に石造の水鉢をよくみると元禄9年聖観音と刻まれています。

清林寺が元禄時代から「江戸三十三観音」の札所であったことを物語っています。

 

清林寺では、現在三重塔を建立中です。

この三重塔は、奈良県の斑鳩にある法輪寺や法起寺を模した飛鳥様式の塔です。

6 写真は法輪寺ですが、このような塔を建てようとされています。

この塔を建立しようとしているご住職の難波光定師のお話では「飛鳥は日本仏教の根源であるので、飛鳥様式で建築しようとしている」との説明でした。また、「失われつつある職人技術を継承することも大きなねらいである」とのことでした。

昭和52年に起工されて33年経ちます。

途中、お願いをしていた大工さんが建築を断念するという思いがけない事態も発生したようです。そのため、一度解体して、再度建築しているとのことであり、現在2層目の構造部までができあがっています。5

 

平成24年5月8日に、三重塔の見学会が開催されました。

80名もの見学者があり、熱心の建築中の三重塔を見学しました。

心柱が真ん中に建てられています。この心柱は木曾ヒノキであり、高さが10メートルあり、下部の直径が73センチ、上部が65センチもある非常に太い柱です。現在ではなかなか入手できない逸品です。

7 清林寺では30年前に入手したそうです。

 

建築資金は、大口寄進者がいるわけではないので、清林寺が行っている事業や奇特な人の寄付によっているとのことであり、完成するまでに相当の期間がかかるものと思われます。

 見学会は、塔の進捗状況に応じて、適切な時期に実施するので、いつ実施すると決まっているわけではないが、今秋にも2回目を行いたいとおっしゃっていました。

 

 清林寺では、三重塔の建築のほか、文化活動や出版事業を行っています。

春のお釈迦さまのお誕生日にはサントリーホールにおいて「花まつりコンサート」を、秋には読売ホールにて各界で活躍する著名文化人を講師に迎えて「秋の講演の夕べ」を開催するなどの文化活動を毎年行っています。

 

また清林寺では、「般若心経」を各国語に翻訳する活動をしていて、現在、英語、ロシア語、ラテン語など、25カ国語に翻訳しています。

特に「ロシア語で読む般若心経」は、日露英3か国語の対訳となっています。

ロシア語訳は、日本で初めてで、ロシア文化に関心を持つ人をはじめ多くの仏教関係者の間で評判となっているそうです。

 

このように様々な事業を展開しているとのご住職のお話しに非常に驚きました。

特に、三重塔の完成は、見学会に参加していた皆さんも待ち望んでいると言われる人が大勢いました。一日でも早く完成することを願いながら、清林寺を去りました。

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2012年1月13日 (金)

江戸三十三観音巡り 第7回 心城院

Photo 第7番札所 心城院 (東京メトロ湯島駅3番出口徒歩2分)

 

【心城院由来】

 心城院は「しんじょういん」と読みます。

 心城院は、湯島天神と関係の深いお寺です。

 江戸時代は神社とお寺が一体となっていました。そのため、神社に付属して、神社の管理やお祀りをおこなうお寺が神社の境内にありました。これを別当寺といいます。

 湯島天神の場合には、喜見院という別当寺がありました。

湯島天神は、いうまでもありませんが菅原道真が祭神ですが、菅原道真は、藤原時平の讒言により 九州へ流されたとき、聖天様を篤く信仰され、冤罪がそそがれるよう聖天(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)様に深く祈念されたそうです。 

5代将軍綱吉の治世の元禄7(1694)年、湯島天神の別当寺であった喜見院の住職 第三世宥海大僧都が、菅原道真の信仰していた聖天様を湯島天神境内にお祀りしました。

その聖天様は比叡山から勧請したもので、慈覚大師作と伝えられています。

この聖天様は湯島の聖天さまとして、江戸っ子から篤く信仰され、有名な紀国屋文左衛門も帰依したと言われています。

江戸時代の喜見院は相当の境域があったそうですが、明治維新の神仏分離令の影響で廃寺となってしまいました。

もともと喜見院の弁天堂であった現在の心城院も廃寺の運命にあるところでしたが、運よく、その難を逃れました。そして、寺名を心城院と改め、建立当時の経緯から天台宗に属し現代にいたっているそうです。

 

 心城院は湯島天神の男坂の坂下にあります。写真正面が湯島天神の男坂で右側に幟が翻っているお寺が心城院です。Photo_3

 湯島といえば天神様ということで湯島天神を多くの人がお参りしますが、この心城院というお寺を拝観する人は少ないだろうと思います。しかし、心城院の境内は狭いながら、拝観する価値が大いにあるお寺だと思います。


【聖天様】

ここで「聖天様」について説明します。

聖天様は、歓喜天・歓喜自在天・大聖歓喜天ともいい、「しょうてん」様、「しょうでん」様と二通りで呼ばれますが「しょうでん」様のほうが正しいようです。

元々、ヒンズー教で信仰されている象頭人身のガネーシャという神様が仏教に取り入れられたものだそうです。
 大変霊験あらたかで、仏教の守護神として崇拝されています。そのため、菅原道真も聖天さまに帰依されたそうです。
 聖天様の像には単身の象頭人身の像と双身の像とがあるそうです。

しかし、聖天様は秘仏中の秘仏とされ、一般の人は絶対見られないそうです。

心城院でも聖天さま独特の修法である浴油供つまり聖天様に油を浴する修法をご住職だけで行っているとのことでした。

聖天様を祀るお寺には、シンボルとして巾着袋(砂金袋)と大根を図案化したものが多く見られます。大根は身体を丈夫にし、良縁成就、夫婦和合のお加護があるそうです。

巾着は商売繁盛を表すそうです。

Photo_4 心城院でも各所に巾着袋と大根があります。写真は外陣上の幕にも巾着袋と大根が刺繍されていました。(○写真)

 

さて、心城院の札所ご本尊さまは十一面観音様です。

お聖天さまは仏さまである十一面観世音菩薩さまが化身された神様ですので、聖天様が心城院のご本尊ですから、まさに一体となってお祀りされているといえます。

札所ご本尊さまが安置されている内陣には入れませんが、外陣に写真が掲示されていました。(○写真)Photo_5

心城院はもと喜見院の弁天堂であったため、弁財天さんもお祀りしてあります。宝珠弁財天といいます。また大黒天も祀られています。

 

【江戸時代の仏具】

心城院は、何回も発生した江戸の大火や関東大震災や東京大空襲の戦災にも幸いなことに遭いませんでした。

火災にあっていないため、仏具類は江戸時代のものがそのまま残っています。

本堂内にある花瓶、灯篭、ろうそく立て、香炉も大部分が江戸時代のものです。

Photo_6 写真の香炉には文政という年号が確かに刻まれていました。

江戸時代の仏具が残っているのは大変貴重なものです。さらに驚くのはこれが見事に磨かれていることです。 ご住職の日ごろの手入れの良さのなせる業だと思いました。

なお、堂内は原則写真撮影禁止ですが、ご住職のご配慮により撮影させていただきました。

 

【柳の井戸】

本堂の前に手水があります(○写真)が、これは「柳の井戸」と呼ばれている江戸名水の一つです。 心城院は「柳の井戸」があることから「柳井堂(りゅうせいどう)」とも呼ばれます。Photo_7

江戸時代の【紫の一本(ひともと)】という本に次のように書かれているそうです。 
 『この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり』
 この名水で髪をあらうと柳の葉が風になびくように髪がさらさらとしたということのようです。

この名水は関東大震災の時、湯島天神の境内に避難した人々の飲料水となり多くの命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けたそうです。

現在、水はポンプでくみ上げられていますが、保健所からも飲用してもよいとのお墨付きをもらっているとのことで飲むことができます。実際に飲んでみるとまろやかな味がしました。

保健所から水が飲めると言うお墨付きをもらえるのは現在ではまれなことでます。

 

Photo_9 また境内の弁財天放生池は今は小さな池となっています。(○写真)

しかし、江戸時代の江戸砂子という本に
 江戸砂子に言う、此所の池は長井実盛(後に斉藤別当実盛になる)庭前の池と伝ふ。

 昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり。
と記され、昔はかなり大きな池だったようです。

昔から病気平癒などの祈願に縁起の良い亀を池に放したため、「亀の子寺」として親しまれていました。 しかし、最近、池を改修して以降は亀がうまく育たなくなってしまったそうです。

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2011年11月18日 (金)

江戸三十三観音巡り 第6回 清水観音堂

第6番札所 清水観音堂 (JR上野駅公園口徒歩6分)

 

 

1  江戸三十三観音めぐりの第6番札所は、上野の清水観音堂です。

 清水観音堂は、寛永寺の一部です。

寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。

天海大僧正は、上野に比叡山延暦寺に倣って「東叡山寛永寺」を開きました。
 比叡山が京都御所の鬼門を守護していることから、寛永寺は江戸城の鬼門の守護する役割をもっていました。
 
次々と建立した建物も、比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとなっています。

不忍池は琵琶湖に模していて、不忍池の弁天堂は琵琶湖の竹生島を模したものです。

そして、清水観音堂は、京都の清水寺を模したものです。

 

清水観音堂

 清水観音堂は、寛永8年(1631)に、天海大僧正によって創建されました。

当初、現在地より100メートル余り北方の摺鉢山上にありましたが、元禄7年(1694)現在地に移築されました。

建物は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺です。

不忍池に臨む正面の舞台造りは、京都の清水寺のものを模したものです。

江戸時代にも浮世絵に描かれるなど、著名な風景でした。
 平成2年より全面的な解体・修復工事を実施し平成8年5月に完成しました。国の重要文化財に指定されています。2

 

ご本尊は千手観世音菩薩像で、平安時代の高僧恵心僧都の作と言われ、京都清水寺より奉安したものだそうです。

このご本尊は、長門本「平家物語」に書かれた壇ノ浦の戦いで敗れ鎌倉に送られた平盛久を救ったという伝説のある「盛久受難の身代わり観音」としても知られています。

観音様は秘仏で厨子内に安置されていて通常は拝観できませんが、毎年2月の初午の日には開扉され拝観できます。

 

3 4 脇本尊の子育観音は、子供に関する願いをかなえていただけるとして多くの人々の信仰をあつめていて、特に子授けは霊験あらたかだそうです。子授札が2千円、子授祈願のロウソクが1本1千円でした。

子育観音様への願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納します。そのため、子育観音の脇には奉納された人形が並んでいます。

毎年925日には、奉納された人形を供養する人形供養が行われます。境内には人形供養之碑も建立されています。

 

多くの人が見過ごしてしまうかもしれませんが堂内には5枚の大きな絵馬が掲げられています。

江戸時代のもの2枚、明治時代のもの2枚、平成になって奉納されたもの1枚が掲げられています。

入口の上に掲げられている絵馬が江戸時代に奉納されたものです。

写真の手前が宝暦7年(1757)の「景清牢破り図」、奥が寛政12年(1800)の「盛久救難図」です。

 

 

秋色桜(しゅうしきざくら)5

 清水観音堂の周辺には、西郷隆盛銅像、彰義隊士の墓など見るべきものがありますが、それらはかなり知られていますので、あまり知られていない「秋色桜」を紹介します。

上野は、現在も桜の名所ですが、江戸のはじめから桜の名所として知られていました。

数多くの桜の中で、固有の名を付せられた樹も何本かあったそうですが、代表的なものが、この『秋色桜』です。

「秋色」というのは人の名前です。

元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が次のような句を読みました。

 井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔

 桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となりました。

お秋は当時13歳だったと伝えられています。あ秋は、宝井其角に俳句を学んでいて俳号を菊后亭秋色といいましたので、以来この桜は、『秋色桜』と呼ばれています。

ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいう説もあり正確な井戸の位置についてはハッキリしていないそうです。

現在の桜は、昭和53年に植え接いだもので、およそ9代目にあたると推定されています。

現在の桜の品種名ヤエベニシダレのようです。

 写真は、秋色桜が満開の時に撮ったものです。非常に見事です。

桜の脇にる碑は、昭和15年10月に建てられたものです。

 

 

 最後に、寛永寺の歴史について略記します。少し長くなりますがちょっとお読みください。

 

Shukushou 寛永寺の歴史

寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。

寛永寺の正式な名前は、東叡山寛永寺円頓院といいます。

開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来です。

天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた大僧正です。

天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。

そのことを知った秀忠は、元和8年(1622)、現在の上野公園の地を天海に与えた。

当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公してお寺の敷地としました。

秀忠が隠居した後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立されました。

寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多いのです。

天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立しました。

寛永寺は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立されました。

これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。
 そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。

そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。

 年号が、お寺の名前に使用されているのは、ほかに仁和寺と建長寺があるくらいであり、非常に稀な例です。

また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。

寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約30万5千坪に及び、さらにその他に大名並みの約1万2千石の寺領を有しました。

そして現在の上野公園の噴水広場にあたる「竹の台」には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が、元禄11年(1698)に、5代将軍徳川綱吉により建立されました。

また、現在の東京国立博物館の敷地には寛永寺本坊がありました。本坊というのは寛永寺の住職である輪王寺宮が生活していた場所です。

さらに清水観音堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が並び立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。

こうした壮大な伽藍も上野戦争で大部分が焼失してしまいました。その中で、清水観音堂は焼失を免れた貴重な建物です。

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2011年10月 7日 (金)

江戸三十三観音巡り 第5回 大安楽寺

しばらく間のあいた「江戸三十三観音めぐり」をひさしぶりに投稿します。

 今回は、第5番札所の「大安楽寺」です。

Cimg2356  大安楽寺は、東京メトロ「小伝馬町」駅の上にありますので、駅から至近距離にあります。

 

【小伝馬町牢屋敷】 

大安楽寺は、江戸時代は、小伝馬町牢屋敷があった場所に建っています。

大安楽寺が建立された経緯も小伝馬町牢屋敷があったことがきっかけになっていますので、まず小伝馬町牢屋敷について書いていきます。

 

小伝馬町牢屋敷は、言い伝えによると、天正年間(157392)に常盤橋外に牢屋ができて、それが慶長年間(15961615)に小伝馬町に移されたとされています。

江戸時代の初めから江戸時代を通じて、ここにあって、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されました。

 

 牢屋敷というと刑務所と思う方が多いと思いますが、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑がありませんでした(永牢という長期間収監する刑が例外的にあります)。

ですから、この牢屋敷は、刑が決まるまでの一時的な収容所という施設、今で言うと未決囚の収容施設(拘置所)でした。

 

牢屋敷は、約2、700坪ありました。現在の十思公園のほか、隣の十思小学校(今は十思スクェアと呼ばれています)と大安楽寺や身延山東京別院や民家のある場所を含めた範囲でした。

 牢屋敷は、町家のなかに位置し、周囲には 高さ7尺8寸(2m36cm)の練塀(ねりべい)を巡らし、練塀の外側に堀がありました。

牢屋敷の表門は西側にあり、東側に裏門がありました。

屋敷内の南側には、牢屋奉行の屋敷や役人の詰め所があり、牢屋は北側にありました。

 

【十思の由来】

小伝馬町牢屋敷の大部分は、現在、十思公園と十思スクエアになっています。

十思というのは、あまり聞きなれない言葉です。

明治になってから、ここの学区が第十四小区であったことから、中国の宋の時代の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の中にある「十思之疏(じっしのそ)」の十思の音が十四に通じるところから「十思小学校」と名づけられました。

十思之疏(じっしのそ)とは、「資治通鑑(しじつがん)」の中で唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十ケ条の天子のわきまえなければならぬ戒めです。

十思学校の東隣にある公園も小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。

 

【大安楽寺は名の由来は、大倉と安田から?】Cimg3962

さて、大安楽寺は、高野山真言宗のお寺です。

大安楽寺の塀には、「伝馬町牢処刑場跡」と書いてあります。その名のとおり、大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷の刑場の跡に建立されたお寺です。

明治の初年、ここを通った高野山の山科俊海というお坊さんが燐の火が燃えているのを見て、霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ち、明治8年にお寺を建設されました。

その頃、一坪100円程度した土地の値段が、ここは牢屋敷の跡だということで、3円50銭だったそうです。

建立に際して、大倉財閥創業者の大倉喜八郎と安田財閥の創業者安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われています。

しかし、本当は 「理趣経」に基づく寺号とのことです。

 

大安楽寺のご本尊は弘法大師様で、札所ご本尊様は十一面手観世音菩薩像です。

ご本尊様は、団体でお参りする際には拝観できるそうですが、一人で札所めぐりをしている場合には、お断りしているというのがご住職のお話でした。

5人程度でお参りするのであれば、法事等がなければ拝観させていただけるそうです。

私は一人でお参りしたのでご本尊様を拝観することはできませんでした。

十一面観世音菩薩像の高さ18センチあまりで、台座を入れても30センチに満たない大きさとのことです。

 

Cimg4696 【延命地蔵菩薩像】

 大安楽寺の境内に延命地蔵菩薩像が建っています。

実は、このお地蔵様がたっているところで、死刑の人たちが処刑されました。

土壇場という言葉はご存知だと思いますが、斬首される場所のことを土壇場と言います。土壇場の語源は、牢屋敷にあったことになります。

延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立されました。

台座の下の部分に供養の言葉が書かれています。

「為囚死群霊離苦得脱」と書かれています。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」と呼ばれる山岡鉄舟が書いた文字です。

安政の大獄で処罰された吉田松陰もここで処刑されました。そのため、隣の十思公園内に「吉田松陰終焉の地の碑」が建てられています。 

 

地蔵菩薩像の隣のお堂の中には、江戸八臂弁財天様が祀られています。

八臂(はっぴ)とは8つの腕という意味です。この弁財天様は、北条政子の発願で作られたと伝わっているそうです。

 

【吉田松陰終焉の地の碑】Cimg3971

大安楽寺の隣の十思公園内に「松陰先生終焉之地」と刻まれたが建てられています。

吉田松陰は、2回、小伝馬町の牢屋敷に入っています。

一度目は 安政元年(1854年)のペリーの2回目の来航の時に、アメリカに密航しようとして、果たせず、下田奉行所に自首した後、この牢屋敷に入っています。

2度目は、安政の大獄で牢に入れられます。安政の大獄は、特に水戸藩や一橋派を標的にしたものでしたので、吉田松陰は、それらに関係して訳ではなかったので、遠島ぐらいと思われていましたが、斬首の刑となってしまいました。これは井伊大老の指示だったという説もあります。

1859年(安政6年)10月27日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。

「松陰先生終焉之地」の碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたもので、当初は十思小学校の校庭にあったそうですが、GHQの命令で、こちらに移転したそうです。

この碑は、松蔭のお墓ではありません。お墓は、世田谷の松蔭神社、千住の小塚原回向院、萩の吉田家の墓地にそれぞれあります。

 碑には、辞世「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」と書かれています。
 吉田松陰の辞世には、この歌のほか、家族宛に「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ なんと聞くらん」というのがあります。

大安楽寺 メトロ小伝馬町駅5番出口前

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