江戸の名所

2011年5月 8日 (日)

江戸の名所番外編 特報!亀戸宰府天満宮の藤が見頃です

 この江戸名所シリーズ第6回でご紹介した、亀戸宰府天満宮(亀戸天神社)の藤がいよいよ見ごろを迎えています。

 5月5日東京都ウォーキング協会主催の江戸東京歴史文化ウォークのお手伝いに参加しました。八丁堀の桜川公園を出発して、石川島~越中島~深川不動~富岡八幡宮~繁栄神社~木場公園~中川番所跡~亀戸緑道公園の16kmを歩くコースです。
 途中解説員(私も仰せつかりました)が、ポイントポイントで由緒や歴史を説明しながら歩きます。なんと500人を超える人たちが参加し、驚きました。東京都ウオーキング協会の催しでも大変人気のあるイベントだそうです。
 
 ウオーキングの解散地が亀戸駅近くだったので、足を伸ばして宰府天満宮を覗いてみました。
 ワォー、境内の藤が見頃でした。Photo







 こちらもたいそうな人出です。若いカップルも目立ちます。広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』を思い出しました。
 ぜひこの数日に参詣に出かけることをお勧めします。(彦)Photo_2


●亀戸天神社 JR亀戸駅から徒歩7分

2011年5月 6日 (金)

江戸の名所第8回 石濱神明宮・真崎稲荷社(石浜神社)

 江戸時代、石濱神明社は、浅草の北の橋場にあって、朝日神明宮とも、また橋場神明宮とも呼ばれていました。橋場といえば、池波正太郎フアンにはなじみの地名です。
 そうです。『剣客商売』の剣客、秋山大二郎がここに住んでいて、道場も構えていました。川向こうの上流の鐘ヶ淵には父親の秋山小兵衛が40歳以上年下の女房おはると共に暮らしています。

Photo  石濱神明宮の草創は古く、ご由緒によれば、
聖武天皇の神亀元年(724)9月11日、勅願によって鎮座され、以来1280年余の歴史を持っていて、 文治5(1189)年、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡との戦いに勝利して帰国した際に御礼として社殿を造営したといわれています。
 千葉氏、宇都宮氏の尊信を受け、中世からかなり大きな神域を誇っていたそうです。祀る神は、伊勢神宮と同じく、天照大御神と豊受姫神です。
 「汐入の押し合い祭」(神輿を、手を使わずに肩だけで担いで、押し合いながら今戸橋を渡る)で有名な牛頭天王社(現在は江戸神社)、菅原道真の真作の神像が名高い天満社など、有力末社がいくつもあったそうです。

 南隣りには同じ鈴木家が神主を務めていた真崎稲荷社がありました。近くにあった石濱城主の千葉介守胤が、一族の繁栄を願って天文年間(1532~54)に建てたといわれています。戦場の先駆けたれ、という願いを込めて真っ先、真崎と名付けられたとか。祭神は倉稲魂命です。一ツ橋徳川家の祈願所となって庶民の出入りができなくなったといいます。

 かわりに奥宮として招来稲荷神社が設けられ、こちらの方が江戸の庶民に大人気で、門前の茶屋の田楽が評判でした。 
 しかし、人気の秘訣は田楽ではありません。江戸後期の随筆家・喜多村筠庭の風俗百科事典『嬉遊笑覧』にこう書かれています。

 「かたはらに野狐の住める穴あり。真崎いなりの奥の院とぞ、志願あるもPhoto_2の、狐の好む食物を用意して、此穴際に来り。神主は御出々々(おいでおいで)と手をうてば、狐出てこれを食ふ。食はざるは願かなはずなん」

 穴の前に油揚げを置いて、神主が「お出で、お出で」と手を打って、出てきて食べてくれれば願いがかなうというものです。だからこの神社の読み方は、「招来(おいで)稲荷」なんだそうです。この狐穴はいまも「白狐祠」として祀られています(赤鳥居の後ろの祠。右の鳥居は富士塚)。
 このエピソードは第4回に紹介した、対岸にある三囲稲荷の狐の話とよく似ていますね。

 大正時代になって真崎稲荷が石浜神社の境内に移されました。昔の両社の真ん中に現在の境内が造営されています。(彦)
●石浜神社 南千住駅(JR常磐線、メトロ日比谷線、つくばエクスプレス)より徒歩15分

2011年4月25日 (月)

江戸の名所第7回 秋葉大権現社

 第6回の宰府天満宮(亀戸天満宮)以後、ずいぶん時間があいてしまい、申し訳ありません。心の痛む震災風景に、とても名所巡りどころではありませんでした。

ようやく、せめても災害除けにと、秋葉さまをお参りしてきました。江戸時代の人たちも、地震、津波、火事などの災害に、被災者を悼み、悲しみ、恐れおののき、救済を求めて 寺や神社に参ったのでしょう。
 そのすがりたい気持ちが、いやというほど分かります。


Photo  さて、現在は秋葉神社と呼ばれている秋葉大権現社があった辺りは、請地村と呼ばれてていました。

『江戸名所図会』によれば、いにしえには「浮地」と称したり、とあります。隅田川の流域は川とも陸とも判然としなかった地域だったのかもしれません。


秋葉神社の御由緒によれば、昔この地は五百崎(いおさき)の千代世の森といい、千代世稲荷大明神社は正応二年(1289)に草創されたとのことです。


 その後、請地村の長百姓岩田與右衛門を通じて寺社奉行に願い出て、元禄15年(1702)に遠州秋葉大権現を勧請し、秋葉稲荷両社となり、上野沼田藩二万石、本多正永によって社殿が造営されたといいます。その際、別当寺として千葉満願寺も興されました。


 社殿造営をした本多正永は、その2年後の宝永元年に一万石を加えられて三万石となり、老中に任じられます。まもなく、さらに一万石を加えられて四万石となる出世ぶりです。鳥居のすぐ近くに本多正永献納の石灯籠一対が残されています。

秋葉権現はその後、尾張徳川家の祈願所にもなり、いっそう大名たちからの崇敬を集めていきます。

Photo_2
 本殿近くの石灯籠一対(写真)は松平甲斐守吉里、つまり柳沢吉里の正室、源頼子の献納です。
 柳沢吉里は五代将軍綱吉の寵を得て、大老格にまで出世した柳沢吉保の息子で、綱吉の隠し子ではないかとの憶測までささやかれた人物です。綱吉から、父吉保同様、松平の姓を許され、偏諱(二字以上の名の中の一字)を賜って吉里としていたことから、こんな説が出たようです。
閑話休題。吉里は父の隠居後、後を継いで甲斐甲府藩15万石二代目藩主となり、その後大和郡山藩15万石に移って初代藩主となる大大名でした。

 また、この石灯籠の横にある1基は、源頼子の父である上野前橋藩主酒井雅楽頭忠挙(うたのかみ・ただたか)の献納。忠挙は「下馬将軍」といわれた大老酒井雅楽頭忠清の子で、大留守居という役職に就いた人物でした。忠挙は土地を寄贈して、社殿改築費も出したそうです。

 当時の江戸の外れの農村にあった権現社にしては、献納者にそうそうたる名前が連なります。

 大名ばかりではありません。この秋葉権現社は火災の多かった江戸時代、火難除けの神様として、信仰を集めていました。

 下の『江戸名所図会』にはこう書かれています。
「請地 秋葉権現宮 千代世稲荷社
 社頭に青松 丹楓おほし 晩秋の頃 池水に映じて 錦をあらふがごとく 奇観たり」
 つまり、松の青さと楓の赤のコントラストが際立つ、紅葉の名所だったのですね。
 池の水に映って錦を洗うがごとく、とはまた素敵な描写です。

 そのようすを浮世絵に描いたのが歌川広重の『名所江戸百景 請地 秋葉の境内』です。まさしく、松の緑と、紅葉の赤が池に映え、まるで大名庭園のようです。残念ながらここではご紹介できませんが、お持ちの方はあらためて見て下さい。

 ところで、絵の左下隅に、その景観を写生している人物が描かれていますが、実はこの人物は広重本人では?とNHKBSプレミアムの番組「額縁をくぐって物語の中へ」では語られていました。いわれてみると広重の自画像に似ています。

 また、寄り道してしまいました。江戸時代はこの神社の人気を表すように門前も栄えていました。
Photo_3  左の絵は『江戸名所図会』です。
「門前 酒肆 食店多く おのおの生洲(いけす)を構へて 鯉魚を飼ふ」
 葛西太郎、武蔵屋、大七といった有名料亭も向島一帯に、まるで別荘のように散在していました。また、門前には手軽に酒と食事を楽しめる店が軒を並べていたようで、鯉料理など魚料理が名物だったようです。
 いまはその賑わいの跡形もなく、近くにある、向島花柳界一帯がわずかにそれをしのばせるのかもしれません。(彦)
秋葉神社 東武伊勢崎線曳舟駅より徒歩7

 

2011年3月 2日 (水)

江戸の名所第6回 亀戸宰府天満宮(亀戸天神社)

 亀戸天神社は江戸時代はもっぱら宰府天満宮と呼ばれていたそうです。
「亀戸宰府天満宮 当社の門前貨食店(りょうりや)多く、おのおの生州(いけす)を構え、鮮魚を畜(か)う業平蜆もこの地の名産にして、もっとも美味なり」
Photo_7  と、『江戸名所図会』にあります。「料理屋、シジミ」お~良いですね。いきなり食べ物が出てきて、江戸の名所らしいです。

 この亀戸天神社は、寛文3年(1663825日、筑前太宰府天満宮の分祀として創建されました。祭神はもちろん菅原道真公で、その祖神の天菩日命(あまのほひのみこと)を相殿に祀っています。
 
 江戸時代から花の美しさが評判で、歌川広重『名所江戸百景 亀戸天神境内』には、藤の花を手前に置いて名物の太鼓橋(写真は男橋)が、その背景には藤棚に設けられた桟敷に座ってのんびりと花見をする人々が描かれています。Photo_8
 斎藤月岑著『東都歳事記』にも「藤」の見所として
「亀戸天満宮神池の傍(楼門の左右に棚あり。池にうつり、美景なり)」
 と記されました。
 紫の花と香りに包まれた亀戸天満宮は、さぞかし美しかったことと思います。
 藤は4月下旬から見頃を迎えます。亀戸天神社の「藤まつり」もその頃行われています。

 また、天神さまといえば梅でしょう。境内に約300本植えられています。菅原道真を慕って京都から太宰府に飛んできた「飛び梅」の実生も、紅梅殿 にお祀りされ、毎年225日に「紅梅殿例祭」が行われます。祝詞の後に一般参詣者も玉串 (榊)を捧げて祈念することができます(左写真)
Photo_13  1月末から36日まで、「梅まつり」が行われていて、境内は梅の香りに包まれていました。
 
 もちろん、亀戸天満宮の魅力は花ばかりではありませんでした。さまざまな祭事が行われて大勢の参詣客を集める神社でした。

 まず、正月。元旦から七日までは、年始を祝う歳旦祭(さいたんさい)です。江戸時代も学問成就を祈る参詣者で賑わいましたが、平成の今日は、合格祈願の受験生が真剣な面持ちで初詣に大勢訪れます。頑張って下さい。
 
 その賑わいの余韻が収まった、1月の24日、25日。亀戸をはじめとする天神社の人気行事、「鷽替(うそかえ)神事」が行われます。
 昨年頂いた木彫りの鷽を納めて、新しい鷽を頂くと、昨年の凶事や嫌なことが「ウソ」になる(^^)、幸運を招くということで、人気を呼んでいます。
 太宰府天満宮や大阪天満宮では、「替えましょ、替えましょ」のかけ声とともに、参詣客同士が持参の鷽を交換する姿が見られます。この亀戸天満宮でも、江戸時代は参詣に来た人同士で鷽を互いに交換していたようです。

 「梅まつり」の真っ最中の225日は、菅原道真の御忌でもあり、現在は「菜種御供」が行われています。本殿内の神前で献花式では、なたねなだめに通じることから、菜の花に紅白梅を添えた生花が供えられるます。Photo_14
 また一般参詣者も本殿前に菜の花をお供えし(右写真)、「菅原公の御心をお慰 めする」神事となっています。
 しかし、江戸時代はもう少し大がかりな神事で、歌人としても知られる菅
原道真にちなんだ、和歌を詠むことが中心となっていたようで、「菜種の神事」といわれていました。
 斎藤月岑他著『江戸名所図会』にはこうあります。
  「二月二十五日菅
神の御忌によりて、二十四日通夜連歌興行、二十五日午時に至り、神前において社人等梅の枝を持ち、梅花の神詠二十八首を披講す。また夜に 入りて宮司・社人松明を照らし榊と幣(ぬさ)とを神体とし、本社より心字の池をめぐり、橋を越えて瓊門(けいもん)より入り、社前に松明を積んでこれを炊 く」
 なかなか雅でかつ荘厳な神事ですね。
 『江戸名所図会』には、元禄14年に行われた「聖廟八百年御年忌」の様子が描かれ、其角の一句が添えられています。
 「梅松や あがむる数も 八百所」

 亀戸天満宮の最も重要な「例大祭」は824日頃(平成23年は25日)に行われます。神輿と曳き太鼓が町内を巡航する、勇壮な祭です。
 さらに4年に一度の大祭「後鳳輦(ごほうれん)渡御」では、祭神菅原道真公の御霊を乗せた御鳳輦が氏子町内を巡行。そしてすべての町神輿が連なって宮入する連合渡御が行われます。
 では江戸時代の例大祭はどうだったでしょうか?その盛況ぶりを、また『江戸名所図会 亀戸天満宮祭礼神輿渡御行列』から記します。
  「隔年八月二十四日に修行す。当日竪川通り北松代町の御旅所へ神幸、同日帰輿あり。後水尾帝の勅許によりて、神輿供奉の行粧(ぎょうそう)すべて宰府の例 式に准(なぞら)へて、もっとも壮観たり。別当大鳥居氏乗車す。生子(うぶこ)の町々よりも練物車楽(ねりものだんじり)を出だしてはなはだにぎはへり。 翌(あく)る二十五日に至りて神詠披講、社頭にて行う」
 和歌は天満宮の神事には欠かせないのですね。

Photo_15  境内には牛を祀った「神牛」像もあります(左写真)。義太夫狂言『菅原伝授手習鑑』の三つ子の主人公、松王丸、梅王丸、桜丸が牛飼舎人で、牛車をめぐって車 曳きすることを、ふと連想しました。身代わりになったとか、墓所を決めたとか、天神さまと牛は何かと関わりが深いらしいのですが、その由来の確たるところ は分からないといいます。
 京都の北野天満宮にも牛の像が何体もあり、松王丸たちの父親、白太夫を祀った宮までありました。江戸時代の人々は、なんとなく「天神さまは牛と関係が深いんだよね」と思っていたのでしょうね。
 ただ、第3回に書いた牛島神社と違って、体の悪いところと同じところをさすると治る、という効能はないはずなのですが、なぜかやっちゃう人が多いのがほほえましいです。お参りのクセなんでしょうか(^^)。ちゃんと柵に囲まれていますので、ご注意下さい。
 また、三筆といわれた能書家の菅公にちなんだ筆塚は書道愛好家には必見。悪筆の私もお参りしました。

 あまり注目されていないようですが、個人的に興味深いのが「太助灯籠」です(右Photo_16 写真)。
 両国には塩原橋がありますが、太助は灯籠を二基寄進し、その内の1基が残されているということです。塩原太助はここの氏子だったのですね。
 「青の別れ」か、なつかしいなぁ~。学芸会でやったっけ。えっ、青って?馬ですよ、馬。
 知っている人も少なくなってきたかもしれません。ストーリーを忘れてしまった人は、三遊亭円朝の『塩原多助一代記』を読んで下さい。
  そもそもが怪談物として取材が始まったそうで、話がムチャクチャ複雑なんですが。うんとつづめて言ってしまえば、上州から江戸に出てきて、本所の炭屋で働 き、苦労して豪商となったという、実在の人物の一代記です。成功した後も相生町で慎ましく暮らし、さまざまな公共工事に私財を投じた義人として有名でした (昔は)。
「本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原」
です最後にまるっきり横道にそれてしまいました。
 
すみませんm(_ _)m(彦)

●亀戸天神社 JR亀戸駅から徒歩7

2011年2月 4日 (金)

江戸の名所第5回 牛御前王子権現社(牛島神社)

 今回は「牛御前(うしのごぜん)」こと、牛島神社です。
 よくあることなのですが、現在の牛島神社のある位置と、江戸時代のそれとはだいぶ違っています。
Photo_22  大正時代までは、当時の本所区向島須崎町にありました。現在の長命寺と弘福禅寺に隣接した隅田川よりの場所です。関東大震災後の隅田川改修にともない、昭和三年(1928)現在地へ移りました。
 しかし、社殿は東京大空襲での類焼も免れ東都随一といわれる総桧権現造りの社殿は昔のままの姿を止め、全国でも珍しい三輪鳥居は必見です。

 社伝によれば、慈覚大師円仁が貞観二年(八六〇)に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を勧請し、元慶元年(八七七)には清和天皇第七皇子貞辰親王がこの地になくなられたのを円仁の弟子良本阿闍梨がその神霊を合祀し、王子権現と称したそうです。
 
 祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)。素戔嗚尊が仏教における祇園精舎の守護神で、疫病をつかさどる牛頭天王と習合したこともあって、祇園社同様、疫病を恐れる江戸時代の人々の篤い信仰を受けました。
 また古くは源頼朝の尊崇を受けたことから、北条氏、千葉氏との関係も深く、境内には明治期に建てられた北条時宗顕彰碑もあります。

 なぜ牛御前といわれるようになったのかについて、『江戸名所図会』によればこうです。
「この地、いにしへ牛島の出﨑にてありしゆゑ、牛島の出﨑といふべきを略して、牛の御﨑と唱へたりしならんを、後世誤りて﨑を前(さき)に書きあらため、またそれを御前と転称せしにやといへり」。
 文武天皇の時代(8世紀)、現在の向島から両国にかけての土地には官営の牧場「浮嶋牛牧」があったそうです。
 そうしたことから牛島という地名が生まれたのかもしれません。

 さて、この牛島神社は江戸時代から撫牛の霊験で有名でした。牛の像の自分の体の悪Photo_23 い部分と同じところを撫でると病気が治るというものです。
 牛島神社の撫牛は体だけ ではなく、心も治るというご利益があると信じられ、また子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという 言い伝えもありました。
 現在の牛の像は、文政8年(1815)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったといわれています。
 

 境内には注目すべき江戸時代関連のモニュメントがあります。
Photo_25  まずその一つは数個の力石をまとめた変わったモニュメントです。
 一番上には前述の北条時宗を顕彰する碑が建てられています。(左写真)

 さて下にゴロゴロと置かれたたくさんの石に注目してください。江戸時代、力自慢の者たちが重い石を持ち上げて力競べをして、その成果を奉納した記念「力石」です。「五十五貫余」と彫られた石や「麒麟石」と彫られたものがあります。(下写真)
 五十五貫余?約210キロですよ。凄いですね。見ただけで腰が痛くなりそうです。

  このモニュメントの右には、注目すべき碑が建っています。
 「江Photo_26 戸落語中興の祖」と言われた烏亭焉馬(うていえんば)が、自ら文化7年(1810)に建てた碑です。江戸時代に大変流行ったはずの落語に関する資料が少ない中で、大変貴重です。
 「いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹 談洲楼烏亭焉馬」
 談洲楼とは五代目市川団十郎と義兄弟の縁を結んだ焉馬が名付けた狂歌名だそうです。
 場所が変わったとはいえ、江戸の香りがぷんぷんする神社です。(彦)
●牛島神社  メトロ銀座線浅草駅から約10分

2011年1月26日 (水)

江戸の名所第4回 三囲稲荷(三囲神社)

 浅草から言問橋で大川を渡ると、すぐ右に牛嶋神社、左に数分で三囲神社です。江戸時代は三囲稲荷といわれていた三囲神社を訪ねてみました。

Photo_2  三囲神社の由来は有名です。元は田圃の中にあった稲荷であったことから、田中稲荷ともいわれていたそうですが、近江三井寺の僧侶順慶がこの祠を訪ね、由緒ある祠だと聞いて社壇を建て直そうと掘ったところ、壺が出土したといいます。中には右手に宝珠を、左手に稲を持ち、白狐にまたがった老爺の神像が御座していました。するとどこからともなく白狐が現れ、神像を三度回って消えたことで、三囲の名がついたそうです。宇迦御魂之命=倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)を祀っています。
Photo_2  さて、この三囲神社はけっして敷地は広くないのですが、見所が一杯なのです。
 まずは狐です。稲荷ですから、まるで狐ワンダーランドのように、狐の像を見ることが出来ます。もしあなたが狐好き(いるのかしら?)でしたら、たまりません。
 社殿前には、もちろん狛狐(この呼び方でよいのでしょうか)が守っております(右写真)。この狛狐は目尻の下がった、何とも言えない愛嬌をたたえたお狐様で、通称「三囲のコンコン様」です。
 拝殿をお参りし、裏にまわりますと、白狐を祀った二つの小さな白狐祠(びゃっこし)がありました。こちらを振り返って睨んでいる狐像もいます。(左写真)
Photo_18  お~、こわ。先ほどの和やかなコンコン様とは全然違います。どちらの白狐祠も夜に見たらかなり痺れますね。お百度参りに来ても、願掛けも何もかも放り投げて逃げ出したくなります。特に右の祠の振り返った狐像は体の線のなめらかさがリアルで、顔も妖しく怖いです。
 やはり社殿の裏にあるのが、老翁老媼像です。
 像の前には墨田区教育委員会の説明板があります。
 元禄の頃、この三囲稲荷の白狐祠を守る老夫婦がいたそうです。この媼は祈願しようとする人に頼まれて、田圃に向かって狐を呼ぶと、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまいました。この狐、他の人が呼んでも決して現れることがなかったといいます。Photo_19
 俳人、榎本其角(きかく)は、そのありさまを 「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠みました。老媼の歿後、里人や信仰者がその徳を慕って老夫婦の石像を建てたと伝えられているそうです。
   老嫗像には「大徳芳感」、老翁像には「元禄14年辛巳5月18日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住       武州小梅町」と刻まれているとのことです(右写真)。

 さて、この話に出てくる榎本其角は松尾芭蕉の高弟ですが、三囲神社にとっては重大な伝説を残しています。
 元禄6年6月の大干魃のとき、其角が雨乞いの句「遊ふ田地(夕立)や 田を見めぐりの 神ならば」を詠んで献じると、翌日大雨が降り、その霊験は天下に鳴り響いたといいます。俳句が霊験を招くという伝承はきわめて珍しいのではないでしょうか。
 その立派な句碑もあり、またこのため境内にはさまざまな句碑も建てられていて、さながら俳句の聖地の趣も。三囲神社にはこんな顔もあるのです。

Photo_21  こうして、天下に名をはせた三囲神社に関心を寄せたのが、天下の豪商、三井家の越後屋でした。三井家の守護神としてこの社を奉り、社有地を拡大し、境内も立派にしたそうです。また、いまも三越の屋上には三囲神社を分祀した、小さな祠が祀られています。
 ということで、この神社の境内には狐を上回るほど「三井」があふれています。社殿の後には珍しい三角鳥居がありますが、これは三井家の本邸にあったものを移してきたそうです(左上写真)。京都・太秦にある木嶋神社にある三角鳥居と形は同じようです。ただし、これは平成6年(1994)に寄贈されたものです。
 当然「三越」のマークもありますし、うえに紹介した狛狐の台座に彫られた「向店」とは、駿河町の越後屋本店の向かいにあった綿織物店のことで、その店からの奉納です。境内にある隅田川七福神の大黒天、恵比寿天の神像はやはり三井家にあったものを移してきたそうです。
 そうそう、懐かしいものもあります。閉店になった池袋三越の前にあったライオン像も、ここに寄贈されているのです(下写真)。
Photo_10 これは狛犬とは違って一体だけなので、ちょっとバランスが悪い気もしますが、参詣客には人気があって、みんながこの像をバックに記念写真を撮っています。
 こうして、「三井、三井」となるとこの神社を再興させた順慶が近江三井寺のそうだったことも関連しているのか、と思いたくなりますが、これについては不明です(^^)。
 ところで、一渡りお参りが済んだら、隅田川の土手の方から三囲神社を見てください。
 江戸時代、下流から船で来て目印になった鳥居が見えます。まるで土手に突き刺さったように見えたことから「土手下鳥居」「せり出し鳥居」などといわれた大鳥居があります(下写真)。
Photo  吉宗の時代に、治水のために中州を取り払って土手を盛り上げたために、まるで土手から舞台のせり上げで上がってきたように、あるいは土手に突き刺したように見えることから人気を集めたそうです。他愛もないといってしまえば確かにそうですが、そのような楽しみ方をした心のゆとりが、うらやましい気がします。
 さて、三囲神社のキーワードは「狐」「俳句」「三井」でした。まだ探せばテーマがありそうな奥行きの深いお稲荷様です。(彦)

●三囲神社 銀座線浅草駅から徒歩約13分
 

2011年1月24日 (月)

江戸の名所第3回 真土山聖天宮(待乳山聖天)

 最近、日曜の浅草はものすごい人出です。スカイツリー効果ですね。吾妻橋の浅草側西詰めからは、アサヒビール本社の独特な建物とスカイツリーが並んで見えるので、カメラをじっくり構える人だらけで、歩くのも大変です。今も昔も、名所の吸引力は変わりません。浅草からスカイツリーの押上駅への動線ばかりでなく、近所の名所へ人波が流れてゆきます。
Photo_5  

 聖天様、待乳山聖天(まつちやましょうでん)にも、常連とは見えない、参詣者、観光客が多数訪れています。スカイツリー効果に加えて、パワースポットとして紹介されたせいとか
「どうなんですかね、このパワースポットブーム」という声もありますが、個人的には、神社仏閣に活気があるのは嬉しい限りです。

 

 この待乳山聖天の正式名は待乳山本龍院といいますが、浅草寺の支院で、江戸時代は、正式には金龍山本龍院と号し、真土山聖天宮の名で知られていました。その頃から、商売繁盛、夫婦和合の御利益で信仰を集めていました。
 真土山は東都随一の眺望の名所とされていました。

『江戸名所図会』(斎藤月岑他)は聖天宮をこう描写します。

「このところいまは形ばかりの丘陵なれど、東の方を眺望すれば、墨田川の流れは長堤に傍(そ)うて容々たり。近くは葛飾の村落、遠くは国府台の翠巒(すいらん)まで、ともに一望に入り、風色もっとも幽趣あり」


 同書の風雅な絵に添えられた歌の作者は、江戸初期の歌学者で国学の先駆者でもあった戸田茂翠です。

「あはれとは夕越て行人も みよまつちの山に残すことの葉」
 
 この歌は『万葉集』の歌を受けたものだそうです。
「亦打山(まつちやま)暮(ゆう)越え行きて廬前(いおさき)の
角太河原(すみだがわら)に独りかも寝ん」(弁基法師)

 
 ただし、弁基法師はこの武蔵野の真土山を歌ったのではなく、大和紀伊の国境の真土山ではないか、と『江戸名所図会』にも書かれています。なんにせよ、真土山がこうした歌心を起こさせる名勝だったことは間違いありません。


 そんな雅な世界から突然で恐縮ですが、この本歌を知って境内に無数にある巾着と二股大根が、「は、は~ん」と頷けるようになりました。
Photo_6 よくいわれることですが、この巾着と二股大根は男女の性器を表していて、男女和合の御利益があるとか。江戸時代には、聖天さまにお参りして、「独りかも寝ん」じゃ寂しいな、とふらふらと近くの吉原に向けてさまよい出す人が多かったのではないでしょうか。
 艶っぽい話です
(*゚ー゚*)

 

待乳山本龍院 地下鉄浅草線浅草駅より徒歩約10

 

 

2011年1月16日 (日)

江戸の名所第2回 白髭明神社(白髭神社)

 第1回の向島百花園から歩いて3、4分のところにあるのが、やはり隅田川七福神(向島七福神)の一つ、白髭神社です。江戸時代は白髭明神社といっていたそうで、祭神は猿田彦大神です。現在は、毎年6月はじめ、向島近辺の夏祭りの先陣を切って行われることで知られています。

Photo
『江戸名所図絵』(斎藤月岑他)には、隅田川の畔のひなびた社が描かれています。洪水をたびたび起こした大川(隅田川)の鎮めの神の一つだったようです。

1回目にご紹介した新梅屋敷(向島百花園)に福禄寿を祀ったことで、隅田川七福神巡りがイベントとして発案されたようですが、最後にどう探してもこの向島近辺に寿老人像のある神社仏閣が見つからなかったそうです。
 そのとき 誰かが、寿老人は白い髭を長く生やした神様だから、白髭明神社がまさにそのものではないかといい出しました(頭が良いですね~)。
「おっ、それで行こう!」といったかどうか知りませんが、白髭明神社には寿老人像が祀られていなかったにもかかわらず、明神社全体が寿老人ということになったそうです。だから、白髭明神社の寿老神は神社全体なのです。
Photo_2

 
 白髭明神社の御祭神、猿田彦大神は天孫降臨の際の案内役ですから、お客さんを店にお連れして下さるということで信仰を集めたそうです。

 社殿に向かって左側の狛犬は、かの有名な高級料亭八百善の栗山善四郎と、吉原仲ノ町の引手茶屋の駿河屋市兵衛、遊女屋の松葉屋半左衛門が、文化十二年(1815)に寄進した、と彫られています。(彦)

Photo_3 Photo_4

白髭神社 東武伊勢崎線東向島より徒歩約9分 JR総武線平井駅より約10

 

2011年1月14日 (金)

江戸の名所第1回 新梅屋敷(向島百花園)

Img_0019  今年秋に行われる第6回江戸文化歴史検定の「今年のお題」は「江戸の名所~来日外国人を驚かせた庭園都市のすべて~」です。そこで、このブログで、可能な限り、かつアットランダムに江戸の名所を訪ねてみたいと思います。

  

まず第1回は「新梅屋敷」。なぜ新梅屋敷からなのだ?

いえね、なんといってもいま東京で最大の名所話題は、押上駅前に建設されるスカイツリーですよね。ですから、このシリーズも現代最大の名所から出発したいと思います。
 
 江戸時代、このスカイツリー建設地の押上村あたりに金性寺という寺があって、寺の大聖歓喜天が信仰を集めると共に、境内の山吹が有名だったそうですが、寺はもう存在しておりません。そこで、金性寺近くにあった江戸の有名スポット新梅屋敷を取り上げてみました。現在の正式名称は味気ないですが都営向島百花園です。

 この新梅屋敷は文化元年(1804)に江戸の骨董商・佐原鞠塢(さわら・きくう)Img_0002 が、元旗本の屋敷を買い取り、文化人たちの協力を得て花の咲く植物を集めて造ったものだそうで、当初は狂歌などで有名な大田蜀山人によって「花屋敷」と命名されていました。大変見にくくて申し訳ありませんが、写真の庭門の扁額 に「花屋敷 蜀山人」と書かれています。
 また、門の両脇には詩人・大窪詩佛による「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」の木板がかけられています。大田蜀山人が高級料亭八百善の宣伝文句として、「詩は詩佛 書は鵬斎に 狂歌俺 芸者小勝に 料理八百善」と色紙に書いたことを思い出しますね。当時の文化人は宣伝マンであり、優秀なコピーライターだったようです。
 開園後、多くの梅が持ち寄られ、亀戸にあった梅屋敷に対する新梅屋敷と通称されるようになったということです。
 園内にはさまざまな花木が植えられていますが、訪れたのはあいにく寒さ厳しき冬。花といえば早咲きの冬至梅がちらほら咲き始め、山茶花がゆらゆら木枯らしに揺れるだけの寂しい風情です。
Img_0005  しかしこの季節でも訪れる人は多いのです。園内にある福禄寿尊堂は墨田川七福神(向島七福神)の一つで、正月10日まで公開されていて参詣客を集めていましたし、なにより左の写真、スカイツリーの見える景色が密かな撮影スポットとして人気を呼んでいるのだそうです。(彦)

向島百花園 東武伊勢崎線東向島駅より徒歩約8分 入園料一般150