学問指南役の部屋

2010年10月22日 (金)

学問指南役の部屋(21)水戸藩政治抗争史逍遥

 幕末において、最も政治的に影響力のあった思想といえば、尊王攘夷思想でしょう。これをめぐって大変な政治抗争がありました。その代表的な例のひとつが水戸藩の政治抗争です。

尊王攘夷の総本山は水戸藩です。水戸藩主の徳川家はいうまでもなく徳川御三家のひとつです。この藩中は、高貴な家に仕える者たちであるにも関わらず、馬鹿みたいに人を殺し続けました。だから明治維新の時には、有能な人間はみな死に絶えていました。幕末の水戸藩の中では、過激な尊王攘夷派・穏健な(「現実的」というべきか)尊王攘夷派・佐幕派の、三つ巴の争いが続きました。

水戸藩出身の歴史家内藤耻叟は「役人になれば鰻が食われるが、役人にならなければ鰻串を削らねばならぬ。食うと削ると、これ政権争奪の原因なり」(『水戸史談』)と喝破しています。水戸藩士にとって、役人になって役料を貰うことが、生活の成り立ちのために必要だったわけです。派の政権交代の度に、食う側と削る側とに分かれるものですから、そりゃ、もう大変です。つまり「水戸藩の政治抗争の本質は、思想をめぐる争いじゃなくて、ご飯の取り合いである」というのです。これは、水戸藩史のみならず、幕末史全体を考える上において、大切にしたい発言です。

山川菊栄『幕末の水戸藩』(岩波文庫)等によると、水戸藩の財政窮乏にはいくつか原因があるようです。内高(実収)が28万石しかないのに表高(名目高)を35万石と言い張りました。そして、禄高は玄米計算ではなくて籾米計算。そのうえ藩主が江戸在府で出費が多い。これらによって藩士はとても貧乏でした。その悲惨な様子は『幕末の水戸藩』にうんざりするほど書いてあります。

 喰い物の恨みは恐ろしい。水戸藩の佐幕派は、天狗党の乱の関係者を、徹底的に弾圧します。家族まで牢に入れて殺しました。天狗党の乱の将武田耕雲斎の七男、三歳の子どもも斬首します。嫌がるだろうからと、お菓子を置いて外へ誘い出し、ひょいと首が出たところを斬ったりしました。末娘も二歳か三歳で牢獄に入ります。幸運にも殺されず、七歳か八歳で出牢します。出牢するとき、ひとに「これからは牛も馬もみることができます」といわれても、牛も馬もみたことがないから何とも言い様がなかった、といいます(山川菊栄『武家の女性』〔岩波文庫〕)。そして、耕雲斎の孫武田金次郎は、15歳で天狗党の乱に巻き込まれ、罪人生活5年を無知に育って帰藩した後、復讐の殺戮を繰り返し、藩の漢学者青山延光を狙いますが、延光は金次郎に会うなり「ヤア金坊か、大きくなったなア」といったので、金次郎は斬らず慌ててそのまま立ち去ったそうです(山川菊栄『幕末の水戸藩』)。

 この殺し合いは、徳川斉昭が藩主に就任したときの藩政改革に端を発します。斉昭が偏った人事を行い、藩の規則に背いた人物までをも重用したことが、ことの始まりです。

 徳川慶喜が天狗党の乱についてこう言っています。

公(徳川慶喜) あれはね、つまり攘夷とか何とかいろいろいうけれども、その実は党派の争いなんだ。攘夷を主としてどうこういうわけではない。情実においては可哀そうなところもあるのだ。(『昔夢会筆記』〔東洋文庫〕)

 慶喜は「天狗党を見捨てた」として批判されることが多々あります。この発言はその言い訳とも読めてしまうわけですが、「攘夷を主としてどうこういうわけではない」というくだりは、先の内藤耻叟の発言と妙に平仄が合っていて、単なる言い訳であるとも言い切れない感があります。案外正鵠を射ている発言じゃないでしょうか。

(高尾善希)

2010年10月15日 (金)

学問指南役の部屋(20)石黒忠悳『懐旧九十年』

 坂本龍馬が出てこない幕末史本のひとつに、石黒忠悳『懐旧九十年』(岩波文庫)という本があります。なかなか味わいの深い本です。

森鴎外のことに詳しいひとなら、石黒忠悳という名前にぴんとくると思います。陸軍衛生部軍医制度の確立に功あったひとで、子爵まで昇ります。弘化2年(1845)に生まれ、昭和16年(1941)に没します。享年97歳。長生きですね。自分の長い人生を回顧して書いたものが同書です(但し岩波文庫版は省略されている箇所があります)。

 彼は平野順作という代官手代の子として生まれ、父の死後、父の実家、越後国片貝村の石黒家の家督を継ぎます。田舎の若き村夫子として、読書によって尊王攘夷の思想にかぶれていました。そして素朴な攘夷主義をもつに至ります(小攘夷主義)。それが、佐久間象山に面会して、大攘夷主義の考え方に触れて、だいぶショックをうけます。以下は象山の言葉。

段々話は聞いた。足下の志す尊皇攘夷については拙者はよく分っている。そのなかで、尊皇ということには勿論自分も同意見であり、日本六十余州いずれの山中でもいずれの島でも、一人としてこれに異議あるべからざることは明らかである。ただその方法についてであるが、足下ら同志に期するところも皇制復古にあるようだが、この大事を完成するには今の封建を革(あらた)め郡県にせねばならぬ。そうすると士・農・工・商の別は廃せられることとなる。農・工・商は暫く措いて、士に至ってはすべて俸禄から離れることになるから、何かの生業に就かしめばならぬ。…自分にも成案はないが、この点が実に困難なる問題である。

 象山にとって、尊王攘夷という思想は、ただ海外を打ち払うということではなく、国家変革の思想でもありました。大攘夷主義、つまり「国を富ましめ攘夷を行う」という戦略的な考え方では、もう武士身分は要りません。俸禄を支払うお金があったら、軍艦や鉄砲を買ったほうがいいですから。

 石黒は象山の言葉がきっかけのひとつとなり、のちに西洋医学を学びます。そして軍医として西南戦争に接し「全国の草莽の有志で皇政復古を樹立するという素志に叶うた」と言っています。「全国の四民から採った徴兵が勇名著しき薩摩武士に勝った」からです。彼にとって西南戦争は、王政復古の完成を確認する機会であったわけです。

 このように、尊王攘夷思想の本格的なものは実は生半可な思想ではありませんでした。例えば、下級武士たちが尊王攘夷思想を支持したのは、国内変革への熱い願望があったからなのです。

(高尾善希)

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2010年10月 8日 (金)

学問指南役の部屋(19)幕末15年間

 今年の大河ドラマは『龍馬伝』です。わたしは観ていないのですが、視聴率は好調であるようです。

さて、その龍馬の活躍した「幕末」という時期は、いつからいつまでか。実は多様な見解があって、定まらないのですが、一般的には、ペリー来航(嘉永6年〔1853〕)から大政奉還(慶応3年〔1867〕)迄、という考えが広まっているようです。すると、この間は15年間あることになります。

この15年間を概観してみると、幕末の政変の配置は、随分偏っていることがわかります。15年間を半分ずつに割ってみると、前期が、嘉永6年(1853)から安政6年(1859)迄の7年間、そして真ん中に万延元年(1860)の1年間があり、後期が、文久元年(1861)から慶応3年(1867)迄の7年間、となります。実は、主な幕末の政変は、この後期の7年間に殆ど偏って起こっているのです。

これの一番大きな原因は、後期には開港の影響があって、物価が著しく上昇したことでしょう。これによる社会的混乱は計り知れません。蒸気船の普及により、情報・人・モノの遣り取りが素早くなったこともあるでしょう。また、武器の近代化の問題も、もちろんあるでしょう。

福沢諭吉『福翁自伝』(岩波文庫など)によると、福沢が暗殺を恐れていた時期は「文久二、三年から維新後明治六、七年のころまで」である、といいます。先に述べた「後期の偏り」を、福沢がこのように実感していたてんは、興味深いと思います。

道具や経済が変われば、時代の流れ方も変化するのではないでしょうか。これはいつの時代でも同じことです。現代ではインターネットが随分普及しました。インターネットを使う時代は、インターネットの能力に沿って、時代が流れていくのです。

(高尾善希)

2010年8月20日 (金)

学問指南役の部屋(18)江戸時代の手習本

 歴史学(文献史学)の勉強の基本は古文書読みです。もう、ほとんど国語の勉強と同じだといっても、過言ではありません。もし、「歴史を本格的に勉強したい」という方がいらっしゃったら、古文書を勉強して下さい。古文書を読まないと、その時代を知ることはできません。
 ある手習本があります。手習本とはいまでいう「教科書」ですね。武蔵国入間郡赤尾村の林家文書に残っていたものです。林家は名主さんの家で、手習塾もすこしやっていました。幕末の時の当主半三郎信海が、娘のとも女に対して書き与えた、手作りの手習本です。
 表紙に、「一」から「六」までの数字と、年号月日が付いています。これによって、とも女が、どのような順番で、何歳のときに学んだのか、ということがわかるのです。面白いことは、「一」から「六」へ移るに従って、墨こぼしや悪戯書きが少なくなることです。彼女の成長の跡が垣間見えます(……ちなみに、この史料は、高尾善希「近世後期百姓の識字の問題」『関東近世史研究』50[関東近世史研究会、2001]で紹介しています。このわたしの論文がきっかけで、とも女の手習本が、江戸東京博物館の企画展示に展示されました)。
 わたしも子どもが4人います。文字通りの「豚児」たちですが、「豚児」なりに、だんだんと成長していくものです。
(高尾善希)

2010年7月30日 (金)

学問指南役の部屋(17) 歴史学的若者擁護論

 現在わたしは立正大学で「日本史料講読2」の講義を担当しています。講義では学生さんに江戸時代の古文書を読んで貰っています。

ことしから講義回数が半期13回から15回に増えました。つまり通年で4回も(!)講義が増えたわけです。だから7月いっぱいまで大学の講義があったのです。補講や試験の期間などを含めると、8月始めまで大学に通わなければならない学生もいます。いまの大学生も暇じゃない、ということです。

 先日前期授業の最終講義がありました。講義回数が増えたにも関わらず、毎週欠かさず出席する学生さん、多数。そのうえとても礼儀正しく、「有難う御座いました、後期も宜しく御願いします」と、折り目正しく挨拶してくる方も珍しくありません。大学の事務員さんにも、これをお話ししたところ、「そうそう。最近の学生さんは真面目なんですよ」とのこと。「『いまの若者は駄目だ』っていう話は完全に嘘ですね…」という結論になりました(もっとも細かくみればいろいろなひとがいます。それは年齢を問わず、です)。わたし自身(わたしももう36歳ですからオジサン世代)も含めて、若者に対する偏見があるみたいです。

考えてみれば、老年・壮年層は、若者層に較べて、①人口が多くて、②お金を沢山もっていて、③経験があるわけですから、あらゆる意味で若者よりも高所に立つことができます。若者は圧倒的に不利です。

 明治時代にも所謂「言葉の乱れ」の議論がありました。「湯屋を『風呂屋』なんていうやつがいる」「床を『床屋』なんていうやつがいる」という類のものです。「風呂屋」「床屋」という言葉を普通につかう現代のひとは、明治の頑固老人にとって愚か者ぞろいということになるのでしょうが、そもそも文化なんていつも変化しているものなのです。「乱れ」なのか「変化」なのかは、歴史が決めることです。

 昔のひとは崩し字を読んでいましたが、現代のひとは崩し字を読めません。わたしは、古文書読みのひとりとして、これを「嘆かわしい」なんて、ちっとも思っていません。そんなものなのですよ。だからわたしは今日流行りの「安易な」伝統文化擁護論には与(くみ)しません。若者なら幾らでも擁護するけど。

 メソポタミアの粘土板に「いまの若者はけしからん」と書いてあったそうですから、何度も、何度も、若者を貶してきた歴史があるわけです。賢くならなければならないのは、もしかしたら若者ではないのかもしれない、と思う今日この頃です。

(高尾善希)

2010年7月23日 (金)

学問指南役の部屋(16) 幕末、秘密の書状

 或る村の名主家、松田家(仮名)を調査したときのことです。松田家の御婆さんは、ひとのよさそうな方でした。縁側でお茶をご馳走になりながら、いろいろな昔の話をお聞きしました。御婆さんは「そういえば、うちの家は幕末のときに落ちぶれましてね、家計が逼迫したそうです」と仰って、笑っていらっしゃいました。

その後日。わたしは、幕末期に松田家に嫁いだ鶴女(仮名)の実家、山本家(仮名)の古文書を調査しました。鶴女はたいへん教養のある女性で、松田家で寺子屋を営んでいたようです。

山本家の古文書には、幕末期の鶴女の自筆書状が残っていて、実家山本家の兄に宛てて、このようなことを書いています。

わたしはいまとても困窮しています。薬を買うお金もなくなりました。そこで、是非是非、いくばくかのお金をお貸し頂きたいのです。わたしは、山本の籍から離れた身の上ですけれども、何とぞ宜しくお願いします。この書状は松田の者には内緒で書いております。読後火中の段お願いいたします。

しかし実際は、兄はこの書状を焼かずに大切に保存したわけです。兄はなぜ書状を焼かなかったのでしょうか。

わたしは、この書状の内容を松田家の御婆さんにお見せしようかしまいか、随分迷いました。鶴女が松田家に内緒にしようと思っていた書状ですから、彼女がたとえ故人であるとはいえ、松田家の者にお見せしては彼女に申し訳ない、と思ったからです。しかし結局、幕末の時の書状であるからもう時効であろうという理由で、御婆さんにお見せすることにしました。

松田家の御婆さんは、手紙のコピーを黙ってまじまじとご覧になっていました。そして一言、「そうだったんですねえ…」と、遠い目をして、感慨無量のご様子でした。そのとき(お見せしてよかったのかもしれない)と感じました。

後日、松田家から丁重なお礼を頂きました。

(高尾善希)

2010年7月16日 (金)

学問指南役の部屋(15) 江戸時代を勉強したい!

 わたしは、研究者の中では「専業非常勤」という身分に属している、と考えられます。わたしは、「専業非常勤だ」と自己認識したことはありませんが、ひとからそう呼ばれるのであれば仕方ありません。わたしは「フリーだ」と自己認識しています。両者に実態は変わりありません。要は「細かい仕事を拾って全体の生計を構築しよう」という身分のことです。

 最近は古文書講座のお仕事もいくつか頂きます。その中のひとつをご紹介すると、川崎市宮前区での市民自主企画事業「みやまえ江戸入門講座」の古文書講座は、何と定員200名のマンモス講座ですが、それでも抽選になってしまいました。

http://www.city.kawasaki.jp/88/88miyasi/home/image/edonyumon.pdf

 この講座は無料で公的なものですから、集客がしやすいのかもしれませんが、200名は軽く集客できるのです。江戸時代の歴史講座にせよ古文書講座にせよ、です(どちらかというと、古文書講座のほうが集客しずらいかもしれません)。

 以前わたしは自前の古文書講座をしたことがあります。「ワン・コイン古文書講座」といいます。「500円で古文書を教えます」というもので、わたしのブログで宣伝するだけです。会場は大学の教室を借りて行いました(従って会場費はかからないので、そのてんは助かります)。そのような簡単で無造作な形態のものでも、60名以上のお客さんに恵まれたことがあります。

 このように世の中には勉学熱がまだまだあるのです。だからわたしのような稼業も成り立つわけです。「江戸文化歴史検定にももっと頑張って貰いたい」と考えるゆえんは、まさにここにあります。

(高尾善希)

2010年7月 9日 (金)

学問指南役の部屋(14)『第4回江戸検問題公式解説集』が出版されました!

 わたしは江戸文化歴史検定協会の学問指南役ですので、自著の協会出版物はいちおう宣伝しておくことに致しましょう。江戸文化歴史検定協会編『第4回江戸検問題公式解説集』(小学館)が6月27日付で出版されました(1900円+税 下記画像)。わたしの執筆箇所は6頁から10頁(「巻頭特集 幕末-黒船来航から箱館戦争まで- ふたつの黒船事件-戦争をしなかった江戸幕府-」)・149頁から220頁の1級解説部分です。ちなみに、去年出版された江戸文化歴史検定協会編『第3回江戸検問題公式解説集』も、1級解説部分はわたしの筆によります。

 巻頭特集の「ふたつの黒船事件-戦争をしなかった江戸幕府-」は、検定協会の需(もと)めに応じた書き下ろしです。「幕末を概観できそうな話を」というご依頼でしたので、それにそった文章をかいたつもりです。

 ここでは、-戊辰戦争において江戸城無血開城に寄与した勝海舟が、文久期においては、日記において戦争論を唱えていた-、という事実を指摘しておきました。「戦争を実行すれば開国論への道筋がつく」と考えていたからです。そこに幕末の暴発の奥深さがあります。革命期特有の、「非合理の合理性」の論点を感じ取っていただければ、幸いです。

(高尾善希)

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2010年7月 2日 (金)

学問指南役の部屋(13)江戸時代の官房機密費!?

 前にこのコーナーでは「古文書も嘘をつく」という話を書きました。文字に書いてあるからといって、すぐに信用してはいけません。書いてあることが事実かどうか、ちゃんと裏をとる必要があるのです(それを「史料批判」といいます)。

 先日、わたしの新稿が出ました。高尾善希「宅廻り・飲食・音物-近世後期における領主と村の社会関係史-」『立正史学』107号(立正史学会、20105月)です。学術論文です。学術論文としての出来はどうか知りませんが、内容はまあまあ面白いのではないかと思います。

 扱っている素材は川越藩領の村の事例です。村の百姓が、藩の役人宅に陳情してまわったり(「宅廻り」)、そこで飲食したり(「飲食」)、時に贈賄する(「音物」)、という実態を明らかにしたものです。武士身分と百姓身分との癒着の部分、あるいは仕切りがあいまいになっている部分を明らかにしたつもりです。

 さて、述べたことのひとつに「村の音物」の問題があります。ここでいう「村の音物」とは、村の百姓全体でお金を出しあって藩役人を買収することをさしています。買収することによって年貢を少しでもまけてもらうのです。しかしここには大きな問題があります。村の出費を書いた村入用帳には「誰々様に何両」とは書けません。贈賄行為ですから公開できないマズイ情報なのです。よってある年の村入用帳には、しっかりと贈賄部分のところだけ貼り札が仕掛けてあり、みえないようになっています。光に当てないと貼り札だとわからないように巧妙に細工してあります。これなども古文書の嘘です。贈賄を実行しその情報を隠しているのは村の代表者である村役人たちです。

 この賄賂情報は百姓にも公開されませんでした。おかしいですね。百姓全員が出費したものなのに使い途が公開されないなんて…。しかし、確かに村全体の利益のために使ったものとはいえ、内容は贈賄行為なのですから仕方ありません。この問題はいま流行の内閣官房機密費(内閣官房報償費)の問題と酷似しています。

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2010年6月25日 (金)

学問指南役の部屋(12)賭博の言葉

 最近の相撲界には残念な知らせが多いようです。そのなかのひとつが力士による野球賭博の事件です。普段はあまり相撲界に興味のないわたしも、この種の新聞記事にひきつけられています。

琴光喜を恐喝容疑、元力士逮捕…野球賭博

大相撲の大関琴光喜(34)(佐渡ヶ嶽部屋)が野球賭博に絡む口止め料350万円を脅し取られたとされる事件で、警視庁は24日、元幕下力士で自称・元暴力団組員の古市(ふるいち)満朝(みつとも)容疑者(38)(大阪府寝屋川市石津南町)を恐喝容疑で逮捕した。『読売新聞』(2010624日)

 江戸時代の相撲界は、博徒とのつながりが非常に強く、元力士の博徒などが珍しくありませんでした(御触書にもそのことの記述が出てきます)。その意味でいえば今回の事件はそれを強く想起させるものでした。喜んでよい事件ではありません。

落合延孝さんの『八州廻りと博徒』(山川出版社)には、江戸時代後期の上州のある村役人が、目明しに対して、「ほんくら野郎」と罵る場面が出てきます。この「ほんくら」は「ぼんくら」と読み、「盆暗」と書きます。博打の仲介役のことを「中盆」というのですが、「中盆」の仕事の下手くそなことを、「盆暗」というのです。村役人が博打用語を使って罵る姿は、とても異様な感じがします。しかし、江戸時代後期の難しい社会をまとめる村役人も、アウトロー的な世界に一部通じている必要があったのです(落合さんはここまで踏み込んで発言していません、ここはわたしの見解です)。

実は、今回の力士たちがやっていた野球賭博でも、賭博を仲介する人物のことを「中盆」といいます(『AERA』201062825頁)。

ですから、何から何まで、江戸時代とまったく変わっていないのです。「国技」というからには、みなさんに愛されるスポーツにならなくてはいけません。

(高尾善希)