学問指南役の部屋(21)水戸藩政治抗争史逍遥
幕末において、最も政治的に影響力のあった思想といえば、尊王攘夷思想でしょう。これをめぐって大変な政治抗争がありました。その代表的な例のひとつが水戸藩の政治抗争です。
尊王攘夷の総本山は水戸藩です。水戸藩主の徳川家はいうまでもなく徳川御三家のひとつです。この藩中は、高貴な家に仕える者たちであるにも関わらず、馬鹿みたいに人を殺し続けました。だから明治維新の時には、有能な人間はみな死に絶えていました。幕末の水戸藩の中では、過激な尊王攘夷派・穏健な(「現実的」というべきか)尊王攘夷派・佐幕派の、三つ巴の争いが続きました。
水戸藩出身の歴史家内藤耻叟は「役人になれば鰻が食われるが、役人にならなければ鰻串を削らねばならぬ。食うと削ると、これ政権争奪の原因なり」(『水戸史談』)と喝破しています。水戸藩士にとって、役人になって役料を貰うことが、生活の成り立ちのために必要だったわけです。派の政権交代の度に、食う側と削る側とに分かれるものですから、そりゃ、もう大変です。つまり「水戸藩の政治抗争の本質は、思想をめぐる争いじゃなくて、ご飯の取り合いである」というのです。これは、水戸藩史のみならず、幕末史全体を考える上において、大切にしたい発言です。
山川菊栄『幕末の水戸藩』(岩波文庫)等によると、水戸藩の財政窮乏にはいくつか原因があるようです。内高(実収)が28万石しかないのに表高(名目高)を35万石と言い張りました。そして、禄高は玄米計算ではなくて籾米計算。そのうえ藩主が江戸在府で出費が多い。これらによって藩士はとても貧乏でした。その悲惨な様子は『幕末の水戸藩』にうんざりするほど書いてあります。
喰い物の恨みは恐ろしい。水戸藩の佐幕派は、天狗党の乱の関係者を、徹底的に弾圧します。家族まで牢に入れて殺しました。天狗党の乱の将武田耕雲斎の七男、三歳の子どもも斬首します。嫌がるだろうからと、お菓子を置いて外へ誘い出し、ひょいと首が出たところを斬ったりしました。末娘も二歳か三歳で牢獄に入ります。幸運にも殺されず、七歳か八歳で出牢します。出牢するとき、ひとに「これからは牛も馬もみることができます」といわれても、牛も馬もみたことがないから何とも言い様がなかった、といいます(山川菊栄『武家の女性』〔岩波文庫〕)。そして、耕雲斎の孫武田金次郎は、15歳で天狗党の乱に巻き込まれ、罪人生活5年を無知に育って帰藩した後、復讐の殺戮を繰り返し、藩の漢学者青山延光を狙いますが、延光は金次郎に会うなり「ヤア金坊か、大きくなったなア」といったので、金次郎は斬らず慌ててそのまま立ち去ったそうです(山川菊栄『幕末の水戸藩』)。
この殺し合いは、徳川斉昭が藩主に就任したときの藩政改革に端を発します。斉昭が偏った人事を行い、藩の規則に背いた人物までをも重用したことが、ことの始まりです。
徳川慶喜が天狗党の乱についてこう言っています。
公(徳川慶喜) あれはね、つまり攘夷とか何とかいろいろいうけれども、その実は党派の争いなんだ。攘夷を主としてどうこういうわけではない。情実においては可哀そうなところもあるのだ。(『昔夢会筆記』〔東洋文庫〕)
慶喜は「天狗党を見捨てた」として批判されることが多々あります。この発言はその言い訳とも読めてしまうわけですが、「攘夷を主としてどうこういうわけではない」というくだりは、先の内藤耻叟の発言と妙に平仄が合っていて、単なる言い訳であるとも言い切れない感があります。案外正鵠を射ている発言じゃないでしょうか。
(高尾善希)