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2013年7月20日 (土)

江戸三十三観音巡り 第14回 金乗院

【所在地】豊島区高田21239
      東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」駅より徒歩3

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 今回は14番札所の金乗院(こんじょういん)をご案内します。 

 金乗院は、東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」駅3番出口から徒歩3分です。3番出口をでたところが目白通りで、これを東に70メートルほど歩くと十字路があります。十字路を北に向かえば雑司ヶ谷鬼子母神ですが、金乗院に行くには南に向かいます。

 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、山号は「神霊山」、寺号は「慈眼寺」といいますが、「金乗院」と通称されています。開基である永順というお坊さんが、本尊の聖観音菩薩を勧請して観音堂をつくったのが、金乗院の始まりだとされています。ご住職のお話では、永順の詳しい経歴はわからないようですが、文禄3年(1594)に没していることが記録に残っているとのことで、金乗院の創建はそれ以前の天正年間(15731592)の頃ではないかと推定されています。

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 この道はゆるやかな坂になっていて、「宿坂(しゅくさか)」と呼ばれており、鎌倉街道の名残りと考えられているようです。宿坂をくだると信号があり、信号の手前西側が金乗院です。右写真は、信号から見た「宿坂」です。左手が金乗院の山門で、写真中央右寄りに目白不動堂が写っています。

 当初は中野にある宝仙寺の末寺で、蓮花山金乗院と称しましたが、のちに護国寺の末寺になり、神霊山金乗院となったそうです。江戸時代までは、近隣の「木之花開耶姫(このはなさくやひめ)社」の別当も務めていました。
 しかし、昭和20413日の空襲により、本堂や徳川光圀の手によるものとされる木此花咲耶姫の額などが焼失してしまいました。ご住職のお話では、本堂裏手の高台にある墓地からみると、早稲田大学の大隈講堂まで一面の焼野原だったそうです。

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 現在の本堂は昭和
46年に再建されました。通常の参拝の際には、本堂内には昇らせていただけないのですが、今回は特別に昇らせていただきました。
5 本堂内は 右上の写真のようにかなり広く、200畳敷きの広さがあるそうです。その中央に、ご本尊様をお祀りした厨子が安置してありました。ご本尊の聖観世音菩薩は絶対秘仏で、御開帳の機会はないそうです。その厨子の隣には、奈良県にある豊山派総本山の長谷寺のご本尊十一面観音像を模刻した十一面観音像が安置されていました。

 金乗院は、目白不動明王が安置されていることでも有名です。そのため、関東三十六不動尊巡りの第
14番札所にもなっています。

6 目白不動明王は、もともとは金乗院のものではありません。1キロほど離れた文京区関口駒井町にあった新長谷寺(しんちょうこくじ)という寺院にあったものです。
 新長谷寺は、山号を東豊山(ひがしぶさん)といい真言宗豊山派の寺院でした。昭和20525日の空襲で焼失したため、金乗院と合併し、目白不動明王は金乗院に移されました。当時、金乗院のご住職が、新長谷寺の住職も兼務されていた縁によ
るものだそうです。目白不動明王を安置する不動堂は、山門を入って右手に建てられており(右上の写真)、コンクリート製の階段を登ってお参りするようになっています。

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新長谷寺の不動明王は断臀(だんぴ)不動明王と呼ばれ、高さ八寸の仏像ですが、秘仏で正月の28日のみ御開帳されます。縁起によれば、次のようなご由緒があるようです(左の写真が断臀不動明王ですが、「金乗院のしおり」から転載させていただきました)。

 弘法大師が唐より帰ったのちに湯殿山に参籠されたとき、大日如来が不動明王のお姿となって滝の下に忽然と現れ、大師に告げました。「この地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり。故に凡夫登山すること難し。今汝に無漏の浄火をあたうべし」。そして持っている剣で自分の左の臂(ひじ)をお切りになると、臂から霊火が盛んに燃えでて、仏身に満ちあふれました。そこで大師はそのお姿を二体刻んで、一体は羽後国荒沢に安置し、
1体は大師自ら護持されました。
 この言い伝えどおり、目白不動明王は、写真のように左肘の先から炎が吹き出しています。

 その後、下野国足利に住した某沙門が、これを感得して奉持していましたが、ある時に霊感を感じて、武蔵国関口の住人松村氏と相談し、ついに寺を開いて、本尊を移し安置しました。そして、地主渡辺石見守より藩邸の地の寄進を受けて、お寺を開山しました。これが新長谷寺の始まりとされています。


 以上が、金乗院さんから頂戴したしおりに書いているとともに、『江戸名所図会』にも記されている由来です。


 その後、元和
4年(1618)、大和長谷寺の第四世小池坊秀算僧正(1572-1641)が中興し、二代将軍秀忠の命により堂塔伽藍が建立され、また大和長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像を移し、新長谷寺と号しました。

8_2 さらに寛永年間、三代将軍家光は、とくに本尊断臀不動明王に目白の号を贈ったので、以後は江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、目白不動明王と称することになりました。またその辺り一帯を目白台と呼ぶようになります。
 元禄年間には、五代将軍綱吉及び同母桂昌院が篤く帰依し、たびたび参詣しています。堂塔伽藍も壮麗を極め、門前町家19軒、寺域除地1752坪と広大な境内がありました。『江戸名所図会』にも「境内眺望勝れたり、雪景もっともよし」と書かれています。

9_2  その新長谷寺も、戦災で焼失して金乗院に
合併されますが、金乗院の不動堂には御前立の不動明王(左上の写真) が安置されていて、通常の参拝の際には、御前立不動明王を参拝させていただけます。また、新長谷寺の不動堂には、かつて天狗の面があったそうです。平成23年にその天狗の面が復元され、不動堂に掲げられています。面は檀徒総代の方が、仏師田中文弥氏に依頼して作成し、寄進したものだそうです。

10_2  本堂の北側は高台で墓所となっていますが、そこに丸橋忠弥の墓があります。
丸橋忠弥は槍の名人で、慶安4年(1651)、由井正雪とともにいわゆる「慶安事件」を起こして幕府転覆を企てましたが、幕府に発覚して捕縛され、鈴ヶ森で処刑されました。
 忠弥の本姓は長曽我部秦氏でしたが、出羽山形出身の乳母の家丸橋家を継いで、丸橋忠弥と名乗りました。宝蔵院流槍術の大家で、お茶の水に道場を設けていましたが、由井正雪とともに、浪人救済のため、幕府転覆を企てたのです。

鈴ヶ森での処刑後、一族が密かに遺骸を貰い受け、紀州に埋葬しますが、一族の後裔である秦武郷が金乗院に移し、安永9年(1780714日に墓碑を建てました。忠弥のお墓をよく見ると、表上部に長宗我部氏の家紋である七つ方喰(かたばみ)が刻まれていますし、墓の裏面には「長曾我部秦盛澄」と刻まれています。

Resize_4  そのほか墓所入口には、天保2年(1831)、日本で最初の公開図書館といわれている『青柳文庫』を仙台に創設した青柳文蔵の墓もあります。また、境内には寛文6年(1666)に建てられた、不動明王の法形を現した庚申塔である「倶梨伽羅不動庚申」、寛政12年(1800)に建てられた鍔塚(つばづか)があります。

今回、金乗院さんお邪魔して、ご住職にお話を伺いました。アポイントのお願いをしたのは5月でしたが、目白不動明王の御開帳もありお忙しいとのことで、お話を伺うことができたのは、6月下旬のことでした。

11_2  お会いして、お忙しい理由がよくわかりました。ご住職の小野塚幾澄様は、平成
20年から平成24年まで 真言宗豊山派管長および総本山第85世化主(けしゅ)を勤められていました。平成22年には、天皇皇后両陛下の行幸啓(ぎょうこうけい)を賜ったとのことで、客殿には天皇皇后両陛下をお迎えする小野塚幾澄管長の写真が掲出されていました。上の写真が、その写真の前でお話しされている小野塚幾澄様です。そうした要職についていらっしゃったご住職ですから、忙しいのもむべなるかなと思いました。

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つは我が家は真言宗豊山派のお寺の檀家なのですが、自分の宗派の管長も知らない自分自身の迂闊さを恥じいった次第です。しかしながら、小野塚幾澄様はそんな無礼に怒られることもなく、たいへん上品で優しい物腰で、金乗院の歴史や目白不動明王について丁寧に説明してくださいました。

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ご住職にご説明いただいたなかに、中庭についての話があります。中庭は、戦災で植物などはすべて焼失しましたが、客殿を立てる際に池の大きさが少し小さくなったものの、姿形は元のままで、『江戸名所図会』に載っている当時の面影を残しているとのことでした。

13  上の写真にある左側の石灯篭は、新長谷寺にあったものだそうです。庭内には長谷寺から移植したというボタンも植えられていて、ご住職がたいへんお庭を大切にしている様子が窺えました。右の写真は、ボタンが満開になった光景です。この写真はご住職からご提供いただきました。

 また、客殿入り口には、石踊達哉画伯が描かれた「金乗院鎮守木華開耶姫(このはなさくやひめ)降臨之図」がありました。石踊画伯は、装飾的で独創性のある日本画を描いています。瀬戸内寂聴現代語訳『源氏物語』の装幀画でも有名ですし、世界遺産の金閣寺方丈の杉戸絵及び客殿格天井画も制作しました。伝統的な花鳥風月を、現代感覚で流麗な作品に昇華させる作風は、「平成琳派」と呼ばれて高い評価を得ています。

14 金乗院は、「木華開耶姫社」の別当でもありました。そのため、四季の花々に彩られた木華開耶姫が描かれているようです。200号の大作ですが、石踊画伯がこれほどの大きさのものを描かれることはなく、たいへん貴重なものだそうです。平成1011月に奉納されています。その大作の前にご住職に立っていただき、記念写真を1枚撮らさせていただきました。

今回、ご住職の小野塚幾澄様には、お忙しいなか貴重なお時間を割いていただき、親切にご説明いただきました。紙面を借りて、改めて御礼申しあげます。
 誠にありがとうございました。

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