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2013年3月12日 (火)

江戸三十三観音巡り 第13回 護国寺

【所在地】文京区大塚5―40-1

      東京メトロ有楽町線「護国寺」駅より徒歩1分

 

 今回は、13番札所の護国寺をご案内します。      

護国寺は、東京メトロ「護国寺」駅1番出口から徒歩1分の至近距離にあり、出口を出ると目の前に仁王門があります。大和国長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の大本山で、正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)といいます。天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により創建されました。

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 5代将軍綱吉は、3代将軍家光の三男として生まれ、15歳で館林藩主となり25万石を領しました。さらに延宝8年(1680)5月、4代将軍家綱が40歳で亡くなると、家綱に実子がないうえ次兄の綱重も亡くなっていたため、三男の綱吉が5代将軍となります。

 綱吉の母桂昌院は、京都の商人仁右衛門の次女光子(幼名お玉)として生まれました。光子(お玉)は成長すると江戸に下って大奥に入り、3代将軍家光の側室になります。家光死去の後は、桂昌院と名乗りました。

 
桂昌院は、上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢に、深く帰依します。亮賢は、大和国長谷寺で修業した僧で、当時、霊験ある祈祷僧として有名でした。そこで、桂昌院が懐妊したとき、亮賢に占ってもらうと「この子は将来、天下を治める器である」とのことでした。喜んだ桂昌院は亮賢に安産祈祷を命じます。こうして無事に生まれた子が、のちの綱吉です。この後、亮賢は護持僧として桂昌院に仕えるようになりました。

 
綱吉が将軍になった翌年の天和元年(1681)に、桂昌院の願いにより、亮賢を開山に招いて将軍家が所有していた高田薬園の地に創建されたのが護国寺です。護国寺は、桂昌院の信仰する念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」をご本尊として、当初は将軍家の私的な祈願寺として建立されました。創建当初の寺領は300石でした。

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天和3年2月、桂昌院は初めて護国寺に参詣し、元禄3年(169011月には将軍綱吉が訪れます。その後、元禄7年には綱吉・桂昌院が一緒に護国寺に参詣し、寺領は加増されて600石になりました。

 桂昌院の護国寺への参詣は年2回が定例になり、生涯で15回参詣していて、そのうちの4回は、綱吉も桂昌院と一緒に参詣しています。

さて、護国寺と関係の深い護持院についても触れておきましょう。

護持院の前身は、筑波山にある知足院中禅寺の江戸別院でした。筑波山知足院中禅寺は、平安時代の延暦元年(782)に徳一大師により創建された寺院で、現在は坂東三十三観音霊場の 第二十五番札所になっています。

知足院は江戸からみて鬼門の方向にあるため、江戸城の鬼門守護として徳川家康の信仰を受けました。知足院の第7代住職となった光誉は、2代将軍秀忠の正室お江の生家である浅井家に縁があることから、知足院は寺領500石を家康から賜ります。こうして将軍家第一の祈祷寺となった知足院は、江戸にも別院を設けて将軍家の祈祷にあたりました。

2_medium_3貞享3年(1686)には、隆光が大和国長谷寺から知足院に入り、綱吉から深く帰依されて、元禄元年(1688)には寺領1500石となります。そして、神田に広大な敷地を与えられ、湯島から知足院別院を神田に移して大伽藍を建築しました。元禄8年には寺号を護持院と改め、幕府の第一の祈願寺となります。

隆光は、真言宗新義派の僧録、さらには新義派で初の大僧正に任ぜられるなど、綱吉の信頼を一身に集めていました。しかし、創建後29年経った享保2年(1717)正月、護持院は火災により、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も、堂塔一宇残らず焼失してしまいます。そのうえ再建が許されず、跡地は火除地とされて護持院が原と呼ばれるようになり、護持院は享保5年に幕府の命令により護国寺に合併されました。以来、観音堂を護国寺と称し、本坊を護持院と称するとともに、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねるようになります。

両寺の寺領は併せて2700石。幕府の祈願寺としての寺格を保ち、江戸市民からは江戸の名所のひとつとして親しまれました。しかし、明治になると、護持院は廃寺となって姿を消してしまいました。いっぽう、護国寺は廃寺を免れ、現在まで続いています。

 護国寺には、江戸時代の建築物が数多く残されていますので、それらをご紹介しましょう。

4_medium_2観音堂(本堂)

 現在の観音堂は、元禄10年(1697)に、半年余りの工期をかけて完成しまし た。当初の観音堂は、天和2年(1681)に建てられたもので、36坪という小規模な建物でした。元禄10年に建て替えられた観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物で、十四間十一間半(広さ161坪)の規模を誇ります。ちなみに、この観音堂の材木は紀伊国屋文左衛門が調達したものだそうです。

 観音堂は幸いにも関東大震災や戦災を免れて、元禄時代の姿を今に留めており、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。元禄時代の大建築物が東京に残っていることに驚かされるとともに、都内とは思えないような光景に心を打たれます。

☆如意輪観世音菩薩像

護国寺のご本尊様は、桂昌院の念持仏だった天然琥珀製の六寸五分の如意輪観世音菩薩像です。この琥珀製の観音像は、元禄13年(1700)に秘仏本尊として奥ノ院に移されました。そして、新たに平安時代の恵信僧都作と伝えられる木製の如意輪観世音菩薩像が祀られました。

木製の新しい観音像は、大老堀田正俊の母堀田栄隆尼により寄進された五尺六寸5_medium_4 の六臂の観音様で、毎月18日の御縁日だけに開帳されます。今回、この記事を書くにあたり、観音像の写真撮影を護国寺様にお願いしましたところ、護国寺様が撮影された写真の転載をお許しいただけました。右の写真は護国寺様のHPから転載させていただいたものです。

本堂内には、多くの仏様が安置されていますが、そのなかで文京区の文化財に指定されている仏像を三体、ご案内します。

なお、本堂内は撮影禁止ですが、今回は護国寺様の特別のご配慮によりご許可いただいた上で、写真撮影させていただきました。

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☆大日如来座像(上左)

檜の一木造りで、像の高さ44.1cmの座像です。11世紀後半から12世紀初め頃 の、古様をとどめた、やや地方的な仏師の作と推定され、平安時代後期の作とされています。小作りで童顔風の面貌をした仏像です。

☆地蔵菩薩立像(上中央)

檜造りの像の高さは95.4cmで、直立しています。左手に宝珠、右手に錫杖を持っており、平安時代後期の作と推定されています。頬がゆったりとふくらみ、肩はまるみをおびながら、浅く緩やかに刻まれた衣文に包まれた姿です。
☆不動明王像(上右)

 檜造りで像の高さは80.7cm、左手に羂索、右手に剣を握っています。鎌倉時代初期の作で、玉眼の技法、大きく歪めた口、思い切った頬の肉づけなどに鎌倉彫刻の特色がみられ、藤原彫刻から鎌倉彫刻への展開を考えるうえで重要な像とされています。ほとんど動きのない姿勢に、憤怒の形相を示す像です。

9_medium仏像以外にも、観音堂造営の記念として奉納された、徳川綱吉直筆の『悉地院 (しっちいん)』の篇額が本堂内に掲げられています。横3尺5寸、縦7尺の檜の板に刻まれたものです。綱吉直筆の額が残されていることに驚きました。

10_medium_2  また、「黒馬図」をはじめとする、16面の大きな絵馬も掲げられています。「黒馬図」は黒馬が軽く走っている図柄の大絵馬で、本堂が建立された元禄10年(1697)に製作されたものです。筆者名桃設、寄進者吉田則安となっていますが、その詳細は不明のようです。

 

1_medium_3仁王門

 仁王門は、不忍通りに面して建っています。切妻造り、丹塗りの八脚門で、桁行は11.5m、梁間6m、軒高5m、棟高5mあります。建立は、元禄10年に造営された観音堂(現本堂)よりやや時代を下ると考えられているようです。

正面両脇間には金剛力士像(向かって右に阿形、左に吽形)が、門の裏側両脇には仏法を守る仏像である二天像(増長天、広目天)が安置されています。 

12_medium不老門 

 不老門は、仁王門をくぐってまっすぐ本堂(観音堂)へとつづく石段の中腹にあ り、中門の役割を果たしています。昭和13年4月に三尾邦三氏の寄進により建立されたもので、護国寺境内では比較的新しい建物です。

鶴は千年、亀は万年といわれように、この門をくぐれば病気にならず、長寿の願いが叶うといわれる門で、形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものだそうです。正面に高く掲げられている「不老」の二字は徳川家達公のご執筆で、両脇のツツジやサツキの花が咲く季節には、一段と鮮やかです。

 なお、石段の下の左右には水舎があり、ここには桂昌院により寄進された手水水盤が置かれています。この手水水盤は、元禄10年(1678)に製作されたと考えられています。

   

13_medium_2大師堂 

 本堂手前東側の一段低くなった場所に大師堂があります。大師堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に修理して、現在地に移築して大師堂としたものです。擬宝珠(ぎぼし)には宝永2(1705)、正面前方の石灯籠には寛政2年(1790)の銘があります。いずれも旧大師堂時代のものだそうです。

14_medium鐘楼(付梵鐘) 

 本堂の右手手前には鐘楼があります。鐘楼形式のなかでも格式の高い袴腰付重層 入母屋造りという形式で造られていて、江戸時代中期の建立とのことです。袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げでできています。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれていて、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼は天保期から存在していたことになります。

15_medium  鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、現在は本堂内部の南西隅に吊るされています。銘文には、徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているそうです。本堂隅にありますので、見落とさないように気をつけてください。

16_medium月光殿        

 月光殿は、もと大津三井寺の塔頭、日光院客殿を移築したもの で、国指定重要文化財です。桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を行なっています。桃山期の書院風建築の代表的なもので、床の間の壁画は狩野永徳の筆と伝えられ、水墨で蘭亭曲水の図が描かれています。ほかの襖絵は狩野派の絵師による花鳥図が描かれていたそうですが、現在は原美術館が所蔵しています。

 このほか、護国寺の広大な境内には、三条実美、山県有朋、大隈重信、山田顕義はじめ、多くの有名人が眠る墓地があります。

 

 最後になりますが、この記事を書くにあたり、本堂内の写真撮影を許可していただくなど大変ご配慮をいただきました護国寺様に、この場を借りて改めて御礼を申しあげます。誠にありがとうございました。

 

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