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2012年12月12日 (水)

江戸三十三観音巡り 第12回 伝通院

【所在地】文京区小石川3丁目14-6
       東京メトロ丸の内線「茗荷谷」駅より徒歩16分
       東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」駅より徒歩12分


 この秋は、毎日文化センターさんの講座に加えて文京学院大学さんの講座でのガイドがあったため、その準備で忙しくて、江戸三十三観音めぐりの記事が書けませんでした。久しぶりに、江戸三十三観音めぐりについて書きましょう。今回は、小石川にある12番札所の伝通院です。

Medium_5  伝通院は、東京メトロ「茗荷谷」駅からだと16分程度、「後楽園」駅からだと12分程度の距離にあります。どちらの駅からも、都バスを利用して「伝通院前」停留所から歩けば2分ほどです。
 正式名称を無量山伝通院寿経寺といいますが、通称伝通院と呼ばれています。「でんつういん」と清音で呼ばれることが多いのですが、正しくは「でんづういん」と濁音です。

 もともとは、南北朝時代の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉上人が開山した浄土宗のお寺でした。開山当時は、小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番の宗慶寺がある場所)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。

 それから約200年後の慶長7年(1602)8月、徳川家康の生母於大(おだい)の方が75歳で伏見城で亡くなった際に、芝増上寺の存応(ぞんのう)上人と相談した結果、この寿経寺を菩提寺とすることになりました。そして、極楽水から現在地に移転し10万坪の面積をもつお寺を造営して、於大の方の法名「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」にちなんで「伝通院」と名付けられたのです。存応上人の高弟正誉郭山和尚が住職となり、幕府から600石を賜っています。

Medium_2  伝通院は、享保6年(1721)、享保10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、その都度、再建されました。しかし、昭和20年5月25日の大空襲で、すべての建物が焼失しました。その後、昭和24年に本堂を再建し、さらに昭和63年に建て替えられたものが、現在の本堂です。
 また、戦災で焼失した山門が、平成24年3月に67年ぶりに再建されました。総ひのき造り、間口10.2メートル・奥行4.8メートル・軒高8.9メートルで、両脇には練塀も造られています。山門の2階には、釈迦如来像が安置されていて、毎月第三土曜日には公開されているそうです。

Photo  伝通院のご本尊は阿弥陀如来です。戦前まで本堂に安置されていたご本尊は戦災で焼失したため、開山堂に安置されていた阿弥陀如来様を本堂に安置なさったそうです。阿弥陀様は江戸時代の作とのことです。
 観音札所としての本尊は無量聖観世音菩薩といいます。この観音様は、昭和51年に信者の方が寄進なさったものだそうで、観音様の前に、寄進者のお名前が掲げられていました。

 このお寺は、教育面でも大きな足跡を残しています。
 江戸時代はじめの慶長18年(1613)には、増上寺の学問僧300人が伝通院に移されて、関東十八檀林(僧の学問修行所)の上席と位置づけられていました。多い時には、学寮に席をおくもの千人以上という状況だったそうです。
 その伝統から、明治24年、芝三縁山増上寺から浄土宗学本校(現在の大正大学の前身)が伝通院へ移され、さらに明治25年には伝通院境内に淑徳女学校が設立されています。淑徳女学校は、現在は淑徳SC中等部・高等部となり、境内脇に校舎を構えています。

 では、伝通院に葬られている人たちについてみていきましょう。

【於大の方】
 伝通院の名前の由来になっている於大の方は、享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野  忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(のちの徳川家康)を出産しPhoto_5ます。
 ところが、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属しました。そのため、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すことになり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されます。

 その後、於大の方は兄信元のすすめによって、天文17年(1547)、尾張国阿久居の城主久松俊勝に再嫁しました。しかし、於大の方は、家康が織田方の人質になってからもつねに衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられています。また、家康が今川義元の人質として駿府にいた際にも、ひそかに使いを送って日用品を届けたと言われています。

 於大の方は、久松俊勝との間に、康元、康俊、定勝の3人の男の子をもうけました。天下統一後、家康は久松家を親戚として尊重します。これが久松松平家です。
 久松松平家は、伊予松山藩や、幕末には桑名藩の藩主になりました。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子に入り、白河藩3代藩主となって、のちに老中となったのです。

 於大の方は、夫の久松俊勝が天正10年(1582)に亡くなると、天正16年(1588)に髪をお ろし、「伝通院」と号しました。上の肖像画は、永禄3年(1560)、母華陽院の死を悼んだ於大の方が、母の像とともに描かせた肖像画です。ふたりの肖像画は、一対として刈谷市の楞厳寺(りょうごんじ)に納められたものといわれています。
 肖像画は、本堂西側にある観音堂の中にある休憩所においてあります。
Medium_6
 於大の方は、家康の天下統一を見届けたのち、慶長7年(1602)8月、家康の滞在する伏見城で亡くなりました。家康は、於大の方の死を悼んで京都の智恩院で葬儀を行ない、江戸に遺骸を送って、伝通院に納骨しました。
 於大の方のお墓は、本堂西側にある、東向きに立った大きな五輪のお墓です。

【千姫(天樹院)】
 伝通院には、有名な千姫をはじめとして、将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されています。千姫は2代将軍秀忠の長女で、母は大河ドラマ『江~戦国の姫たち~』の主人公の江(崇源院)です。

 千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃はまだ豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのです。
 慶長3年(1598)、病床にあった豊臣秀吉は、秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。ふたりの母親である淀君とお江は姉妹ですので、ふたりは従兄弟の関係にあたります。秀吉が死んだのちもこの婚約は守られ、慶長8年(1603)、7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎます。なお、家康がこの政略結婚を仕掛けたという説もあります。

 家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣の際、千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜に脱出して家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。
 翌元和2年、千姫は伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁します。千姫20歳、忠刻21歳でした。

 大坂城脱出の際、家康が「救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り、千姫を救出したという説があります。彼はこのとき顔に火傷をおい、千姫はそれを嫌って本多忠刻に嫁いだので、これに憤った坂崎出羽守が騒動を起こし、殺害されたというのです。
 しかし、これには異説も多く、救出したのは坂崎出羽守ではないという説もあり、千姫の公家への嫁入りをまとめた坂崎出羽守が、面目をつぶされたことを怒って騒動を起こしたという説もあります。

 元和3年に忠政が姫路へ転封となったので、千姫は忠刻とともに姫路城に住むことになります。千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。寛永3年(1626)、30歳になった千姫は勝姫とふたたび江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫とふたりで江戸城内の竹橋御殿に住みました。

 ところで、忠刻が亡くなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡も、千姫の乱行をうたったものと言われています。しかし、これはまったく根拠のない話のようで、こんな俗説がなぜたてられたのか、疑問に思います。

 寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)はひとり暮らしになりまし た。正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方(のちの順性院)が、三男綱重を懐妊しました。この時、家光は厄年にあたっていたため、災厄を避けるために千姫(天樹院)を綱重の養母としました。そのため、Medium_7千姫はお夏の方(のちの順性院)や綱重と暮らすようになります。

 千姫(天樹院)は、寛文6年(1666)に70歳で亡くなりました。法事は、千姫が養母となっていた綱重が執り行なったそうです。千姫も伝通院に葬られており、本堂西北の少し低くなった場所に、五輪の大きなお墓があります。

【家光の正室孝子(本理院)】
 伝通院には、於大の方や千姫のほか、たくさんの徳川家関係者が葬られていますが、その多くは、将軍の正室や側室です。3代将軍家光の正室だった鷹司孝子(のちの本理院)も、伝通院に埋葬されています。

 鷹司孝子は、はじめて摂関家から将軍正室に迎えられた人です。3代将軍家光は、「生まれながらの将軍」だったため、大名より位の高い摂関家から正室が求められたのです。これ以降、将軍の正室は、摂関家または宮家から選ばれるようになりました。
 孝子は慶長7年(1602)に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。元和9年(1623)12月に西の丸に入り、寛永2年(1625)に将軍家光と正式に婚礼を行なって御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。

 しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はなかったようです。孝子は本丸大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住まされ、「中の丸殿」と呼ばれました。幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。このため、当然のごとく、家光との間に子どもはありませんでした。
 このように夫婦仲が円満でなかった理由は、家光と孝子の間に子どもができて、朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が、作為的に不仲にしたという説や、家光が男色好きで孝子を顧みなかったという説など、いろいろあげられています。Medium_8

 慶安4年(1651)4月に家光が48歳で亡くなると、孝子は落飾し、「本理院」と名乗ります。孝子は延宝2年(1674)に、73歳で亡くなりました。
 孝子のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に、南に面して立っています。

【浪士組】
 伝通院は、新選組の母体となった浪士組が結成された場所としても有名です。
 浪士組結成のきっかけをつくったのは、出羽国庄内藩出身の清河八郎です。文久2年8_medium(1862)、清河が時の幕府政事総裁(従来の大老にあたる役)の松平春嶽に、急務三策(①攘夷の断行、②大赦の発令、③天下の英材の教育)を建言しました。尊攘志士に手を焼いていた幕府は清河の建言を採用し、文久3年2月4日、浪士組が小石川伝通院の塔頭処静院(しょじょういん)において結成されることになります。浪士組の山岡鉄舟と親しかった処静院の住職が、結成のための場所を提供したと言われています。

 浪士組は、当初の予定では50名を定員としていましたが、清河による仲間の勧誘もあって、最終的には234名の浪士が集まります。浪士組の中には、のちに新撰組を結成する芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司なども入っていました。浪士組は2月8日に江戸を出発し、京都に向かいました。

 処静院は現在の伝通院の西側にありましたが、廃寺となってしま9_mediumいました。処静院があ った場所の近くには、現在、文京区教育委員会の説明板が設置されています。また、伝通院の山門の脇には、処静院の門前に設置されていたという「戒律を守らない人は境内に入ってはいけない」という意味の「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた石柱が残されています。
 清河八郎のお墓も、この伝通院にあります。

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コメント

古いメルマガをたまたま見ました。2012年12月12日 (水) 江戸三十三観音巡り 第12回 伝通院 の文章中の「不許葷酒入山門」は、「戒律を守らない人は境内に入ってはいけない」という意味ではなく、寺の中は、修行をする為の清らかでけがれのない場所としていたことで、にんにく、にら、ねぎなど臭いの強い野菜(欲望を高める)、そして、生ぐさい肉や魚と、お酒は、心を静め清めるための修行のじゃまになるので、 寺の中に持って入ることができない、ということのようですので、意味を取り違えていると思います。

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