江戸三十三観音巡り 第11回 円乗寺
【所在地】文京区白山1-34-6 都営地下鉄三田線白山駅より徒歩10分
円乗寺は、都営地下鉄「白山」駅A1番出口から徒歩2分の距離にあります。
旧白山通りから旧中山道に向かう上り坂(「浄心寺坂」別名「於七坂」)を少し入ると北側に参道があります。参道入り口には、「江戸三十三観音札所第十一番聖観世音菩薩」の看板があり、「お七地蔵堂」もありますので、すぐにわかります。
江戸時代には、境内が1770坪もあったそうですが、戦後期の混乱もあって、現在は、両側がマンションや住宅に囲まれた細い参道となっています。
円乗寺の入り口西側に「お七地蔵堂」があります。この「お七地蔵堂」に祀られている「八百屋於七地蔵尊」は、八百屋お七が在世の時に所持していた地蔵尊と伝わっているものです。昔から縁結び・火伏の御利益があると信じられていて、現在でも多くの人々の信仰を集めています。
円乗寺の創建時期は、文京区の説明では天正9年(1581)に開創されたとありますが、「御府内寺社備考」という書物には元和6年(1620)川越の喜多院に住する宝仙法印により起立されたとも書かれていて、明確なことは不明のようです。
当初は、本郷の加賀金沢藩の御屋敷(現在の東京大学)の近くにあり、密蔵寺といいましたが、後に円乗寺と寺号が変わりました。明暦3年(1653)に起きた明暦の大火のため本郷の用地が収公されたため、現在地に移転しています。
参道をまっすぐ進むと、正面に本堂があります。戦災で焼失してしまい、戦後再建されました。
円乗寺のご本尊様は釈迦牟尼仏です。本堂中央に鎮座していらっしゃいました。その脇に札所ご本尊様である聖観世音菩薩像が鎮座されています。
戦前、円乗寺には秘仏の聖観世音菩薩像がありましたが、戦災で焼失してしまい、この観音様は、「昭和新撰江戸三十三観音札所」が昭和51年に再興されるのに合わせて造立されたものだそうです。
そして、ご本尊の脇には、八百屋お七の御位牌がありました。「妙栄禅定尼」と八百屋お七の戒名が書かれています。
本堂内には、八百屋お七の絵も飾られています。
円乗寺は、なんといっても八百屋お七のお墓があることで有名です。そこで、「お七火事」や「八百屋お七」について書いてみます。
天和2年(1682)12月28日に大火事が発生しました。この大火事は天和の大火(てんなのたいか)と呼ばれ、江戸十大大火の一つに挙げられほどの大火でした。この火事が俗に「お七火事」とも称されます。駒込の大円寺から出火したとされ、28日正午ごろから翌朝5時ごろまで、下谷・浅草・本所・本郷・神田・日本橋まで延焼し続けました。
この大火で焼失した大名屋敷は、火元近くの加賀藩、大聖寺藩、富山藩の各前田家や村上藩榊原家、津藩藤堂家、対馬藩宗家など73家。旗本屋敷は166家、寺院は霊巖寺など48ケ寺、神社47社という数字も残されています。亡くなった人は3500名余と推定されています。
松尾芭蕉は、このころ深川の芭蕉庵に住んでいましたが、芭蕉庵もこの天和の大火で燃えています。
この火事が「お七火事」とも呼ばれるのは、翌年にお七の放火による火事が起き、これと混同して「お七火事」と呼ばれるようになったと思われます。
お七の放火による火事は、ボヤ程度のもので、大火というほど大規模なものではなかったようですが、あまりにも印象が強かったのでしょう。大火だろうという思い込みから、前年の大火が「お七火事」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
八百屋お七については、有名な話ですが、井原西鶴の『好色五人女』に書かれている内容をはじめ、諸説があります。その中で、最も事実に近いのだろうと言われているのが『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』です。
それによると、お七の生家は本郷の森川宿(現在の東大正門向かい側の北側辺り)の八百屋でした。父は市左衛門(『好色五人女』では八兵衛となっている)といい、加賀金沢藩前田家に野菜を納めるほどの大きな八百屋だったようです。
天和の火事で、森川宿に住んでいた八百屋の市左衛門の一家も焼け出されました。そのため、市左衛門は女房や娘のお七と一緒に、駒込の円乗寺(『好色五人女』では吉祥寺となっている)に避難しました。
菩提寺と書いたものもありますが、円乗寺の市原ご住職によると、円乗寺はお七の家の菩提寺ではないとのことであり、円乗寺が駒込に移転する前はお七の家と近い本郷にあったので、お七一家は円乗寺に避難したのではないだろうかということです。この時にお七は円乗寺の寺小姓、生田庄之助(『好色五人女』では小野川吉三郎、文京区教育委員会の案内板では「佐兵衛」となっている)と恋仲になりました。
やがて自宅が再建され、お七は家に戻りましたが、恋仲になった生田庄之助に会いたい一心で、天和3年3月2日、付け火をします。付け火はすぐに発見され、消し止められました。お七は付け火の道具を持ってさまよっていたため、すぐに捕えられました。
火事はボヤで済みましたが、江戸時代は放火は大罪です。放火の罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火あぶりの刑にされました。
この時、お七は16歳でした。江戸時代は、罪に問われるのは15歳以上であり、15歳未満であれば無罪となります。町奉行の甲斐庄(かいしょう)正親は、なんとかお七を助けてやりたいと思い、「14歳だろう」と問います。しかし、お七は正直に16歳ですと答えたため、鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられてしまったという話が伝えらえています。
ただし、実際に八百屋お七を捕まえたのは、火付改役(ひつけあらためやく:後の火付盗賊改役)の中山勘解由(なかやまかげゆ)です。
このお七の放火は、さまざまな創作物で取り上げられ、大変有名になりました。そのうち最も有名なものが、井原西鶴が書いた小説『好色五人女』です。
また、歌舞伎・浄瑠璃にも数多くの作品があります。代表的なものとして「八百屋お七歌祭文」「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」があげられます。さらに、「お七」という落語にもなっています。
その八百屋お七のお墓が、円乗寺参道西側にあります。昔は屋根がなかったそうですが、現在は屋根が造られています。
お墓は3基あります。中央は、円乗寺の住職が供養のために建てたものです。お墓が丸く削られていますが、これは、一時期、お七のお墓を削った石粉をもっていると御利益があるという噂がひろまり、墓石が削られてしまったと市原ご住職が話されていました。
右側は、寛政年間に歌舞伎役者の岩井半四郎が建立したお墓です。岩井半四郎がお七を演じた縁で、建立したものです。
墓碑正面に「妙栄禅定尼」とお七の戒名が刻まれています。墓碑右脇に建立時期が刻まれていますが、寛政という文字は読み取れましたが、建立した年は不明でした。
左側のお墓は、近所の有志がお七の270回忌法要のために建てたものです。
お七のお墓には、いつお参りしてもきれいな花が手向けられています。円乗寺の人が手向けているようですが、大変気持ちの良いものです。また、お墓の脇にはノートが置かれていて、参拝者の願いごとや感想が書かれています。願いごとは、恋愛成就と諸芸上達が多いようです。
最後に、円乗寺で珍しいおみくじを紹介されました。水で溶けるおみくじです。順に写真を撮りましたので、ご覧ください。
①おみくじは細く丸められています(写真左上)
②ほどいたおみくじを、つくばいに入れます(写真右上)
③おみくじがだんだん水に溶けていきます(写真左下)
④あっというまに、おみくじが水に溶けてしまいました
(写真右下)
八百屋お七のお墓参りした後に、試してみてはいかがでしょうか。
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