江戸三十三観音巡り 第10回 浄心寺
浄心寺は、東京メトロ「本駒込」駅 番出口から歩いて約5分です。
本郷通りに面しています。山門脇にある大きな布袋様が目安になります。
この布袋様、昭和50年頃に建設されたものです。
布袋様の脇にある門を入ると正面に本堂があります。
浄心寺は、正しくは「湯嶋山定光院浄心寺」と言います。
寺伝によれば、浄心寺は、元和2年(1612)に還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建されました。
還蓮社到誉文喬和尚の生まれ等は明確にはわかりませんが、増上寺で修業し、館林善導寺に移った後、駿河赤坂で浄心寺を起立しました。その何年かに後江戸に移り元和2年(1616)浄心寺を起立しました。
そして、元和7年(1621)に浄心寺でなくなりました。年齢60有余歳でした。
浄心寺は畔柳(くろやなぎ)助九郎が大旦那となり創建されました
畔柳(くろやなぎ)助九郎は、寛政重修諸家譜によれば、徳川家康の父松平広忠の頃から松平家に仕え、3代目の助九郎武重が、黒柳そして畔柳と名のったようです。
畔柳氏は、歴代助九郎を名のっていますが、浄心寺の開基は助九郎武重といいます。
畔柳助九郎は、家康に仕え、家康のすぐ傍で数々の戦さを戦っています。
特に三方ヶ原の戦いでは、負け戦となり、家康が自ら武田軍に斬りこもうとしますが、それを推しとどめたのが夏目吉信です。夏目吉信は、家康が乗る馬の轡(くつわ)を浜松城に向けたあと、そばにいた畔柳助九郎に家康をお守りするようにと言い残して武田軍に斬りこんでいきました。
畔柳助九郎は家康の御馬のそばを離れずお守りし家康は浜松城へ無事帰還することができました。このことにより、後に金の扇子を家康より賜っています。
この話は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者湯浅常山が書いた「常山紀談(じょうざんきだん)」の中に書かれています。
助九郎は御中間頭までなっていますが、家康への報恩のため、湯島の拝領地の一部を割り出して浄心寺を建立したと伝えられています。
湯島の内に建立されたことから、山号は湯嶋山(とうとうさん)と名付けられました。
しかし、天和2年(1682)12月28日に発生した江戸の大火いわゆる「お七火事」といわれる大火で類焼し湯島広小路とするため浄心寺の用地が召し上げとなり、湯島での替地は難しく、駒込に600坪の借地を拝領し 翌年、駒込に移転しました。
浄心寺は、昭和20年の戦災で、本堂等を焼失しました。現在の本堂は昭和48年に再建されたものです。
ご本尊は、阿弥陀如来像です。
脇侍として観音菩薩像と勢至菩薩像が安置されています。
ご本尊の阿弥陀如来像は昭和48年に、観音菩薩像は昭和30年代後半、勢至菩薩像は昭和40年代初期に造られました。
阿弥陀如来立像の高さは俗に「丈六」と呼ばれる1丈6尺((約4.85メートル)もある大きなものです。
このうち向って左側の観音菩薩像が、札所ご本尊様で「子育て桜観音」こと十一面観世音菩薩像です。
この三体の仏像は、高村光雲の弟子である阿井瑞岑師と先崎栄伸師によって制作されたものです。
また、内陣右脇には虚空蔵菩薩像も安置されていました。
また、本堂内には、重さ500キロもある木魚が置かれています。日本国内で一番大きいと言われている木魚です。
この日本一大きな木魚は、大きすぎるので法要の際などには使いませんが、実際叩くと鳴るそうです。
境内の入り口、本郷通りの脇に、小さな広場が作られていて、そこに春日局ゆかりのお地蔵様が祀られています。
浄心寺がある場所は、元は春日局のお花畑があった場所でした。地蔵菩薩は春日局が哀願していたものだそうです。
墓地には、佐々倉桐太郎(ささくら とうたろう)のお墓があります。
佐々倉桐太郎は、咸臨丸で勝海舟と一緒に渡米をした人物です。
佐々倉桐太郎は、浦賀奉行所の与力でした。嘉永6年(1853)ペリー来航のとき応接方をつとめた後、長崎海軍伝習所の第1期として軍艦操練技術を学び、伝習終了後、築地の,軍艦操練所教授方となりました。
そして、安政7年(1860)幕府遣米使節に随伴した咸臨丸に乗艦して渡米しました。この時の艦長が勝海舟です。
維新後は海軍兵学寮につとめています。明治8年12月17日に46歳でなくなり、浄心寺に埋葬されました。
また、本堂へ向かう参道の脇に、中曽根元首相が寄進した梵鐘があります。
この梵鐘、浄心寺お出入りの大工さんが中曽根元首相とお付き合いがあった縁で浄心寺に寄進されたのだそうです。
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