2013年10月24日 (木)

江戸検メルマガ 第50号

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江戸文化歴史検定メールマガジン 第50
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◎試験は11月3日
◎NHKの木曜時代劇

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試験は11月3日
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いよいよ検定まで、あと10日。受検票も届いた頃でしょうか?
もし、受検申し込み手続きをしたのに未だ受検票が届いていないという方は事務局[03-3515-6954]へご連絡下さい。
また、「申し込んでいないけれど、やはり受検したくなった!」という方には 飛び入り受検を今年も行いますので、詳しくは江戸検公式ウェブサイトをご確認ください。

★★本日の問題★★

明暦3年(1657)の大火は、2日間で3度出火し、江戸の町の60%が消失されたといわれています。
その後の復興で江戸の町は大きく変わりましたが、このときの事として正しいのは、次のどれでしょう?

い)大名屋敷・寺社地の移転が大幅に行なわれた
ろ)芝居小屋の江戸三座が、浅草猿若町に移転した
は)江戸城も被災したが、すべてもとどおり再建された
に)幕府は遊郭である吉原の建設をはじめて許可した

解答解説はこのメルマガの最後にて。

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NHKの木曜時代劇
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現在放送中あさきゆめみし〜八百屋お七異聞』、ご覧になっていますか?

NHK総合・木曜時代劇枠の第一弾であり、江戸時代好きなら皆が知っている八百屋お七のドラマです。
全10回中5回まで放送が終了してしまいました(本日が第6回放送)が、以前は『龍馬伝』の坂本春猪を演じていた前田敦子さんのとてもキュートなお七が時代劇を見ないという若年層にも親しみやすい内容になっています。
ちなみに、こちらの時代考証は元江戸東京博物館・都市歴史研究室長で、現在は江戸楽講座の講師を務めていただいている北原進先生が担当されています。

■■編集後記■■

第50号といっても特になにもないですが、平素はご愛読いただきまして誠にありがとうございます。
今年は本当に夏のように暑い日が長く続きましたね。11月は平年通りの気温と予報されていますが、きっと寒く感じてしまいそうです。
また各地に被害をもたらしている勢力の強い台風が次々と発生しており、11月3日の影響が心配ですが、「晴れの特異日」とされる文化の日。
元気に皆様が明治大学へいらっしゃるのをお待ちしております

☆☆本日の解答解説☆☆

い)大名屋敷・寺社地の移転が大幅に行なわれた

明暦の大火後、幕府は防火対策に重点を置いた江戸の都市改造に着手します。
実測による江戸の地図を作成して、江戸城周辺の武家屋敷や寺社・一部町人地を移転し、吹上の御三家と有力大名の屋敷を江戸城外へと移します。
また市中には、延焼防止を図るため広小路・火除地・火除堤が設けられ、主要道路の道幅は6間から10間に改められました。

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本メールマガジンの著作権は、江戸文化歴史検定協会に帰属します。
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発行・編集:江戸文化歴史検定協会
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2013年7月20日 (土)

江戸三十三観音巡り 第14回 金乗院

【所在地】豊島区高田21239
      東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」駅より徒歩3

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 今回は14番札所の金乗院(こんじょういん)をご案内します。 

 金乗院は、東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」駅3番出口から徒歩3分です。3番出口をでたところが目白通りで、これを東に70メートルほど歩くと十字路があります。十字路を北に向かえば雑司ヶ谷鬼子母神ですが、金乗院に行くには南に向かいます。

 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、山号は「神霊山」、寺号は「慈眼寺」といいますが、「金乗院」と通称されています。開基である永順というお坊さんが、本尊の聖観音菩薩を勧請して観音堂をつくったのが、金乗院の始まりだとされています。ご住職のお話では、永順の詳しい経歴はわからないようですが、文禄3年(1594)に没していることが記録に残っているとのことで、金乗院の創建はそれ以前の天正年間(15731592)の頃ではないかと推定されています。

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 この道はゆるやかな坂になっていて、「宿坂(しゅくさか)」と呼ばれており、鎌倉街道の名残りと考えられているようです。宿坂をくだると信号があり、信号の手前西側が金乗院です。右写真は、信号から見た「宿坂」です。左手が金乗院の山門で、写真中央右寄りに目白不動堂が写っています。

 当初は中野にある宝仙寺の末寺で、蓮花山金乗院と称しましたが、のちに護国寺の末寺になり、神霊山金乗院となったそうです。江戸時代までは、近隣の「木之花開耶姫(このはなさくやひめ)社」の別当も務めていました。
 しかし、昭和20413日の空襲により、本堂や徳川光圀の手によるものとされる木此花咲耶姫の額などが焼失してしまいました。ご住職のお話では、本堂裏手の高台にある墓地からみると、早稲田大学の大隈講堂まで一面の焼野原だったそうです。

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 現在の本堂は昭和
46年に再建されました。通常の参拝の際には、本堂内には昇らせていただけないのですが、今回は特別に昇らせていただきました。
5 本堂内は 右上の写真のようにかなり広く、200畳敷きの広さがあるそうです。その中央に、ご本尊様をお祀りした厨子が安置してありました。ご本尊の聖観世音菩薩は絶対秘仏で、御開帳の機会はないそうです。その厨子の隣には、奈良県にある豊山派総本山の長谷寺のご本尊十一面観音像を模刻した十一面観音像が安置されていました。

 金乗院は、目白不動明王が安置されていることでも有名です。そのため、関東三十六不動尊巡りの第
14番札所にもなっています。

6 目白不動明王は、もともとは金乗院のものではありません。1キロほど離れた文京区関口駒井町にあった新長谷寺(しんちょうこくじ)という寺院にあったものです。
 新長谷寺は、山号を東豊山(ひがしぶさん)といい真言宗豊山派の寺院でした。昭和20525日の空襲で焼失したため、金乗院と合併し、目白不動明王は金乗院に移されました。当時、金乗院のご住職が、新長谷寺の住職も兼務されていた縁によ
るものだそうです。目白不動明王を安置する不動堂は、山門を入って右手に建てられており(右上の写真)、コンクリート製の階段を登ってお参りするようになっています。

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新長谷寺の不動明王は断臀(だんぴ)不動明王と呼ばれ、高さ八寸の仏像ですが、秘仏で正月の28日のみ御開帳されます。縁起によれば、次のようなご由緒があるようです(左の写真が断臀不動明王ですが、「金乗院のしおり」から転載させていただきました)。

 弘法大師が唐より帰ったのちに湯殿山に参籠されたとき、大日如来が不動明王のお姿となって滝の下に忽然と現れ、大師に告げました。「この地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり。故に凡夫登山すること難し。今汝に無漏の浄火をあたうべし」。そして持っている剣で自分の左の臂(ひじ)をお切りになると、臂から霊火が盛んに燃えでて、仏身に満ちあふれました。そこで大師はそのお姿を二体刻んで、一体は羽後国荒沢に安置し、
1体は大師自ら護持されました。
 この言い伝えどおり、目白不動明王は、写真のように左肘の先から炎が吹き出しています。

 その後、下野国足利に住した某沙門が、これを感得して奉持していましたが、ある時に霊感を感じて、武蔵国関口の住人松村氏と相談し、ついに寺を開いて、本尊を移し安置しました。そして、地主渡辺石見守より藩邸の地の寄進を受けて、お寺を開山しました。これが新長谷寺の始まりとされています。


 以上が、金乗院さんから頂戴したしおりに書いているとともに、『江戸名所図会』にも記されている由来です。


 その後、元和
4年(1618)、大和長谷寺の第四世小池坊秀算僧正(1572-1641)が中興し、二代将軍秀忠の命により堂塔伽藍が建立され、また大和長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像を移し、新長谷寺と号しました。

8_2 さらに寛永年間、三代将軍家光は、とくに本尊断臀不動明王に目白の号を贈ったので、以後は江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、目白不動明王と称することになりました。またその辺り一帯を目白台と呼ぶようになります。
 元禄年間には、五代将軍綱吉及び同母桂昌院が篤く帰依し、たびたび参詣しています。堂塔伽藍も壮麗を極め、門前町家19軒、寺域除地1752坪と広大な境内がありました。『江戸名所図会』にも「境内眺望勝れたり、雪景もっともよし」と書かれています。

9_2  その新長谷寺も、戦災で焼失して金乗院に
合併されますが、金乗院の不動堂には御前立の不動明王(左上の写真) が安置されていて、通常の参拝の際には、御前立不動明王を参拝させていただけます。また、新長谷寺の不動堂には、かつて天狗の面があったそうです。平成23年にその天狗の面が復元され、不動堂に掲げられています。面は檀徒総代の方が、仏師田中文弥氏に依頼して作成し、寄進したものだそうです。

10_2  本堂の北側は高台で墓所となっていますが、そこに丸橋忠弥の墓があります。
丸橋忠弥は槍の名人で、慶安4年(1651)、由井正雪とともにいわゆる「慶安事件」を起こして幕府転覆を企てましたが、幕府に発覚して捕縛され、鈴ヶ森で処刑されました。
 忠弥の本姓は長曽我部秦氏でしたが、出羽山形出身の乳母の家丸橋家を継いで、丸橋忠弥と名乗りました。宝蔵院流槍術の大家で、お茶の水に道場を設けていましたが、由井正雪とともに、浪人救済のため、幕府転覆を企てたのです。

鈴ヶ森での処刑後、一族が密かに遺骸を貰い受け、紀州に埋葬しますが、一族の後裔である秦武郷が金乗院に移し、安永9年(1780714日に墓碑を建てました。忠弥のお墓をよく見ると、表上部に長宗我部氏の家紋である七つ方喰(かたばみ)が刻まれていますし、墓の裏面には「長曾我部秦盛澄」と刻まれています。

Resize_4  そのほか墓所入口には、天保2年(1831)、日本で最初の公開図書館といわれている『青柳文庫』を仙台に創設した青柳文蔵の墓もあります。また、境内には寛文6年(1666)に建てられた、不動明王の法形を現した庚申塔である「倶梨伽羅不動庚申」、寛政12年(1800)に建てられた鍔塚(つばづか)があります。

今回、金乗院さんお邪魔して、ご住職にお話を伺いました。アポイントのお願いをしたのは5月でしたが、目白不動明王の御開帳もありお忙しいとのことで、お話を伺うことができたのは、6月下旬のことでした。

11_2  お会いして、お忙しい理由がよくわかりました。ご住職の小野塚幾澄様は、平成
20年から平成24年まで 真言宗豊山派管長および総本山第85世化主(けしゅ)を勤められていました。平成22年には、天皇皇后両陛下の行幸啓(ぎょうこうけい)を賜ったとのことで、客殿には天皇皇后両陛下をお迎えする小野塚幾澄管長の写真が掲出されていました。上の写真が、その写真の前でお話しされている小野塚幾澄様です。そうした要職についていらっしゃったご住職ですから、忙しいのもむべなるかなと思いました。

 じ
つは我が家は真言宗豊山派のお寺の檀家なのですが、自分の宗派の管長も知らない自分自身の迂闊さを恥じいった次第です。しかしながら、小野塚幾澄様はそんな無礼に怒られることもなく、たいへん上品で優しい物腰で、金乗院の歴史や目白不動明王について丁寧に説明してくださいました。

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ご住職にご説明いただいたなかに、中庭についての話があります。中庭は、戦災で植物などはすべて焼失しましたが、客殿を立てる際に池の大きさが少し小さくなったものの、姿形は元のままで、『江戸名所図会』に載っている当時の面影を残しているとのことでした。

13  上の写真にある左側の石灯篭は、新長谷寺にあったものだそうです。庭内には長谷寺から移植したというボタンも植えられていて、ご住職がたいへんお庭を大切にしている様子が窺えました。右の写真は、ボタンが満開になった光景です。この写真はご住職からご提供いただきました。

 また、客殿入り口には、石踊達哉画伯が描かれた「金乗院鎮守木華開耶姫(このはなさくやひめ)降臨之図」がありました。石踊画伯は、装飾的で独創性のある日本画を描いています。瀬戸内寂聴現代語訳『源氏物語』の装幀画でも有名ですし、世界遺産の金閣寺方丈の杉戸絵及び客殿格天井画も制作しました。伝統的な花鳥風月を、現代感覚で流麗な作品に昇華させる作風は、「平成琳派」と呼ばれて高い評価を得ています。

14 金乗院は、「木華開耶姫社」の別当でもありました。そのため、四季の花々に彩られた木華開耶姫が描かれているようです。200号の大作ですが、石踊画伯がこれほどの大きさのものを描かれることはなく、たいへん貴重なものだそうです。平成1011月に奉納されています。その大作の前にご住職に立っていただき、記念写真を1枚撮らさせていただきました。

今回、ご住職の小野塚幾澄様には、お忙しいなか貴重なお時間を割いていただき、親切にご説明いただきました。紙面を借りて、改めて御礼申しあげます。
 誠にありがとうございました。

2013年7月17日 (水)

江戸検メルマガ 第49号 Twitter

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江戸文化歴史検定メールマガジン 第49
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Twitter始めました
◎第8回は文化の日

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Twitter
始めました
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今年11月3日(日)に第8回を迎える江戸文化歴史検定(江戸検)が公式Twitterを開設しました。
超難関の江戸検1級合格者の活躍や、江戸時代に関するイベント情報など、歴史が大好きなあなたに情報を発信していきますので、どうぞご期待を

★★本日の問題★★

幽霊に足がないというイメージの定着には、江戸時代に描かれた幽霊の絵の存在が大きいといわれています。
では、最初に足のない幽霊を描いたとされているのは誰でしょう?

い)応挙
ろ)探幽
は)広重
に)北斎

解答解説はこのメルマガの最後にて。

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第8回は文化の日
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江戸検の申込受付が公式ホームページ・コンビニエンスストア・一部書店などで始まっています。
もちろん、パンフレット添付の郵便局専用払込取扱票でのお申し込みも大歓迎!
先行して実施している「江戸検 実力診断」も9月20日まで受付中です。

第8回江戸文化歴史検定
実施日/平成25年11月3日(日・文化の日)
試験会場/明治大学駿河台校舎[東京都千代田区神田駿河台1-1]
申込期間/実施中~10月14日(月)
※書店申込は9月30日(月)まで

■■編集後記■■

関東では昨年より19日も早く梅雨明けをし、高校野球も始まり、すっかり夏!!
7月上旬に猛暑日がこんなにも続くなんて観測史上初のようですね。
江戸時代はよく冷夏だったと言われていますが、夏の過ごし方は四季の中で一番江戸文化が残っているなぁと感じています。打ち水したり、扇子や団扇で扇いだり、花火を鑑賞したり、お祭りを楽しんだり…
私は東野圭吾さんの『夢幻花』に倣って変化朝顔を見たいと思っていたら、7月30日より江戸東京博物館で開催される「花開く 江戸の園芸」展の前売り券を館の窓口で購入した先着500名に配布されているそうです。何だか観察日記を書いていた頃が懐かしいプレゼントですね。

☆☆本日の解答解説☆☆

い)応挙
有名なのは病身の妻を描いたといわれている「幽霊図(お雪の幻)」。しかし、応挙が確実に描いたといえる幽霊画は僅かしかありません。
実物を徹底的に写生することを重視した応挙の画風は架空の幽霊であっても、実感をこめて描こうとする姿勢が、見る者に強く迫ってくるものがあります。
一般的に応挙が足のない幽霊を描いた祖といわれるのは、絵そのもののもつインパクトの強さによるのだと考えられています。

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本メールマガジンの著作権は、江戸文化歴史検定協会に帰属します。
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発行・編集:江戸文化歴史検定協会 明恵
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2013年5月 9日 (木)

江戸検メルマガ 第48号 第8回江戸検

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江戸文化歴史検定メールマガジン 第48
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◎速報!第8回江戸検
◎本年も事前に実力診断

 

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速報!第8回江戸検
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最近は事務局へ「第8回江戸検、いつ実施するの?次回分の資料を送って!」という、お電話・お手紙をいただくこと増えてきています。
お待たせして申し訳ございません。2013年度江戸文化歴史検定の実施概要を発表です!!

第8回江戸文化歴史検定

実施日/平成25年11月3日(日・文化の日)
試験会場/明治大学駿河台校舎[東京都千代田区]
申込期間/平成25年7月1日(月)~10月14日(月)
※書店申込は9月30日(月)まで

 

★★本日の問題★★

江戸では、山王権現と神田明神の祭礼行列だけが江戸城入りを許可されて、「天下祭り」と呼ばれました。
ただし、正徳4年(1714)に1度だけ、これ以外の神社の祭礼が天下祭りとして実施されています。
その神社とはどれでしょう?

 

い)赤坂氷川明神
ろ)浅草三社権現
は)根津権現
に)平河天神


解答解説はこのメルマガの最後にて。

 

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本年も事前に実力診断
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検定日が決まったら、それに向けてどのように勉強していくのか。そこで、まずは<自宅でやろう!江戸検 実力診断>です。
本番さながらに行う“郵送受検”、ペーパーレスでオトクな“パソコン受検”2種類ございます。
昨年よりも締切が大幅に延長し、9月20日(金)まで受け付けですので、本検定で出題される問題のヒントも含まれている実力診断で江戸力を試してみませか?

※なお、過去にご受検いただいた皆様へは、上記の2種類のパンフレットと試験事前講座<江戸楽アカデミー>パンフレットは7日より順次発送致します。

■編集後記■■

今春は開花が早く、また北海道・東北地方では遅くと桜や藤等お花見の時季を見誤ってしまったというのは私だけではないと思います。
そんな時には美術館で花見というのは、いかがでしょう?
春は花をテーマにした企画展も多く、先日、東京都渋谷区の山種美術館で開催中の「百花繚乱-花言葉・花図鑑-」[6月2日まで]関連イベントの講演会を受講してきました。
テーマは「日本人は草花をどう描いてきたか」。花・木・鳥・虫等が時代により、どのように描かれ方に変化があったのか、どんな目的のために描かれたか、ということを主軸にした講義でした。
また5月4日“みどりの日”は庭園・植物園で無料開放されている所も多いので、草花を愛でるGW。良いと思います。

 

☆☆本日の解答解説☆☆

は)根津権現
根津権現と称した根津神社は6代将軍家宣の産土神でした。根津神社の祭礼が天下祭りになるのは、家宣死去後の正徳4年9月22日。享保元年(1716)、幕府は根津祭礼を3年に1度の天下祭りとしますが、同年中に、根津神社が日本橋に御旅所を設け、これを3年に1度の令に反したとし、翌年、根津祭礼の天下祭りを停止しました。

 

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発行・編集:江戸文化歴史検定協会 明恵
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2013年3月12日 (火)

江戸三十三観音巡り 第13回 護国寺

【所在地】文京区大塚5―40-1

      東京メトロ有楽町線「護国寺」駅より徒歩1分

 

 今回は、13番札所の護国寺をご案内します。      

護国寺は、東京メトロ「護国寺」駅1番出口から徒歩1分の至近距離にあり、出口を出ると目の前に仁王門があります。大和国長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の大本山で、正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)といいます。天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により創建されました。

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 5代将軍綱吉は、3代将軍家光の三男として生まれ、15歳で館林藩主となり25万石を領しました。さらに延宝8年(1680)5月、4代将軍家綱が40歳で亡くなると、家綱に実子がないうえ次兄の綱重も亡くなっていたため、三男の綱吉が5代将軍となります。

 綱吉の母桂昌院は、京都の商人仁右衛門の次女光子(幼名お玉)として生まれました。光子(お玉)は成長すると江戸に下って大奥に入り、3代将軍家光の側室になります。家光死去の後は、桂昌院と名乗りました。

 
桂昌院は、上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢に、深く帰依します。亮賢は、大和国長谷寺で修業した僧で、当時、霊験ある祈祷僧として有名でした。そこで、桂昌院が懐妊したとき、亮賢に占ってもらうと「この子は将来、天下を治める器である」とのことでした。喜んだ桂昌院は亮賢に安産祈祷を命じます。こうして無事に生まれた子が、のちの綱吉です。この後、亮賢は護持僧として桂昌院に仕えるようになりました。

 
綱吉が将軍になった翌年の天和元年(1681)に、桂昌院の願いにより、亮賢を開山に招いて将軍家が所有していた高田薬園の地に創建されたのが護国寺です。護国寺は、桂昌院の信仰する念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」をご本尊として、当初は将軍家の私的な祈願寺として建立されました。創建当初の寺領は300石でした。

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天和3年2月、桂昌院は初めて護国寺に参詣し、元禄3年(169011月には将軍綱吉が訪れます。その後、元禄7年には綱吉・桂昌院が一緒に護国寺に参詣し、寺領は加増されて600石になりました。

 桂昌院の護国寺への参詣は年2回が定例になり、生涯で15回参詣していて、そのうちの4回は、綱吉も桂昌院と一緒に参詣しています。

さて、護国寺と関係の深い護持院についても触れておきましょう。

護持院の前身は、筑波山にある知足院中禅寺の江戸別院でした。筑波山知足院中禅寺は、平安時代の延暦元年(782)に徳一大師により創建された寺院で、現在は坂東三十三観音霊場の 第二十五番札所になっています。

知足院は江戸からみて鬼門の方向にあるため、江戸城の鬼門守護として徳川家康の信仰を受けました。知足院の第7代住職となった光誉は、2代将軍秀忠の正室お江の生家である浅井家に縁があることから、知足院は寺領500石を家康から賜ります。こうして将軍家第一の祈祷寺となった知足院は、江戸にも別院を設けて将軍家の祈祷にあたりました。

2_medium_3貞享3年(1686)には、隆光が大和国長谷寺から知足院に入り、綱吉から深く帰依されて、元禄元年(1688)には寺領1500石となります。そして、神田に広大な敷地を与えられ、湯島から知足院別院を神田に移して大伽藍を建築しました。元禄8年には寺号を護持院と改め、幕府の第一の祈願寺となります。

隆光は、真言宗新義派の僧録、さらには新義派で初の大僧正に任ぜられるなど、綱吉の信頼を一身に集めていました。しかし、創建後29年経った享保2年(1717)正月、護持院は火災により、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も、堂塔一宇残らず焼失してしまいます。そのうえ再建が許されず、跡地は火除地とされて護持院が原と呼ばれるようになり、護持院は享保5年に幕府の命令により護国寺に合併されました。以来、観音堂を護国寺と称し、本坊を護持院と称するとともに、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねるようになります。

両寺の寺領は併せて2700石。幕府の祈願寺としての寺格を保ち、江戸市民からは江戸の名所のひとつとして親しまれました。しかし、明治になると、護持院は廃寺となって姿を消してしまいました。いっぽう、護国寺は廃寺を免れ、現在まで続いています。

 護国寺には、江戸時代の建築物が数多く残されていますので、それらをご紹介しましょう。

4_medium_2観音堂(本堂)

 現在の観音堂は、元禄10年(1697)に、半年余りの工期をかけて完成しまし た。当初の観音堂は、天和2年(1681)に建てられたもので、36坪という小規模な建物でした。元禄10年に建て替えられた観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物で、十四間十一間半(広さ161坪)の規模を誇ります。ちなみに、この観音堂の材木は紀伊国屋文左衛門が調達したものだそうです。

 観音堂は幸いにも関東大震災や戦災を免れて、元禄時代の姿を今に留めており、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。元禄時代の大建築物が東京に残っていることに驚かされるとともに、都内とは思えないような光景に心を打たれます。

☆如意輪観世音菩薩像

護国寺のご本尊様は、桂昌院の念持仏だった天然琥珀製の六寸五分の如意輪観世音菩薩像です。この琥珀製の観音像は、元禄13年(1700)に秘仏本尊として奥ノ院に移されました。そして、新たに平安時代の恵信僧都作と伝えられる木製の如意輪観世音菩薩像が祀られました。

木製の新しい観音像は、大老堀田正俊の母堀田栄隆尼により寄進された五尺六寸5_medium_4 の六臂の観音様で、毎月18日の御縁日だけに開帳されます。今回、この記事を書くにあたり、観音像の写真撮影を護国寺様にお願いしましたところ、護国寺様が撮影された写真の転載をお許しいただけました。右の写真は護国寺様のHPから転載させていただいたものです。

本堂内には、多くの仏様が安置されていますが、そのなかで文京区の文化財に指定されている仏像を三体、ご案内します。

なお、本堂内は撮影禁止ですが、今回は護国寺様の特別のご配慮によりご許可いただいた上で、写真撮影させていただきました。

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☆大日如来座像(上左)

檜の一木造りで、像の高さ44.1cmの座像です。11世紀後半から12世紀初め頃 の、古様をとどめた、やや地方的な仏師の作と推定され、平安時代後期の作とされています。小作りで童顔風の面貌をした仏像です。

☆地蔵菩薩立像(上中央)

檜造りの像の高さは95.4cmで、直立しています。左手に宝珠、右手に錫杖を持っており、平安時代後期の作と推定されています。頬がゆったりとふくらみ、肩はまるみをおびながら、浅く緩やかに刻まれた衣文に包まれた姿です。
☆不動明王像(上右)

 檜造りで像の高さは80.7cm、左手に羂索、右手に剣を握っています。鎌倉時代初期の作で、玉眼の技法、大きく歪めた口、思い切った頬の肉づけなどに鎌倉彫刻の特色がみられ、藤原彫刻から鎌倉彫刻への展開を考えるうえで重要な像とされています。ほとんど動きのない姿勢に、憤怒の形相を示す像です。

9_medium仏像以外にも、観音堂造営の記念として奉納された、徳川綱吉直筆の『悉地院 (しっちいん)』の篇額が本堂内に掲げられています。横3尺5寸、縦7尺の檜の板に刻まれたものです。綱吉直筆の額が残されていることに驚きました。

10_medium_2  また、「黒馬図」をはじめとする、16面の大きな絵馬も掲げられています。「黒馬図」は黒馬が軽く走っている図柄の大絵馬で、本堂が建立された元禄10年(1697)に製作されたものです。筆者名桃設、寄進者吉田則安となっていますが、その詳細は不明のようです。

 

1_medium_3仁王門

 仁王門は、不忍通りに面して建っています。切妻造り、丹塗りの八脚門で、桁行は11.5m、梁間6m、軒高5m、棟高5mあります。建立は、元禄10年に造営された観音堂(現本堂)よりやや時代を下ると考えられているようです。

正面両脇間には金剛力士像(向かって右に阿形、左に吽形)が、門の裏側両脇には仏法を守る仏像である二天像(増長天、広目天)が安置されています。 

12_medium不老門 

 不老門は、仁王門をくぐってまっすぐ本堂(観音堂)へとつづく石段の中腹にあ り、中門の役割を果たしています。昭和13年4月に三尾邦三氏の寄進により建立されたもので、護国寺境内では比較的新しい建物です。

鶴は千年、亀は万年といわれように、この門をくぐれば病気にならず、長寿の願いが叶うといわれる門で、形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものだそうです。正面に高く掲げられている「不老」の二字は徳川家達公のご執筆で、両脇のツツジやサツキの花が咲く季節には、一段と鮮やかです。

 なお、石段の下の左右には水舎があり、ここには桂昌院により寄進された手水水盤が置かれています。この手水水盤は、元禄10年(1678)に製作されたと考えられています。

   

13_medium_2大師堂 

 本堂手前東側の一段低くなった場所に大師堂があります。大師堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に修理して、現在地に移築して大師堂としたものです。擬宝珠(ぎぼし)には宝永2(1705)、正面前方の石灯籠には寛政2年(1790)の銘があります。いずれも旧大師堂時代のものだそうです。

14_medium鐘楼(付梵鐘) 

 本堂の右手手前には鐘楼があります。鐘楼形式のなかでも格式の高い袴腰付重層 入母屋造りという形式で造られていて、江戸時代中期の建立とのことです。袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げでできています。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれていて、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼は天保期から存在していたことになります。

15_medium  鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、現在は本堂内部の南西隅に吊るされています。銘文には、徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているそうです。本堂隅にありますので、見落とさないように気をつけてください。

16_medium月光殿        

 月光殿は、もと大津三井寺の塔頭、日光院客殿を移築したもの で、国指定重要文化財です。桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を行なっています。桃山期の書院風建築の代表的なもので、床の間の壁画は狩野永徳の筆と伝えられ、水墨で蘭亭曲水の図が描かれています。ほかの襖絵は狩野派の絵師による花鳥図が描かれていたそうですが、現在は原美術館が所蔵しています。

 このほか、護国寺の広大な境内には、三条実美、山県有朋、大隈重信、山田顕義はじめ、多くの有名人が眠る墓地があります。

 

 最後になりますが、この記事を書くにあたり、本堂内の写真撮影を許可していただくなど大変ご配慮をいただきました護国寺様に、この場を借りて改めて御礼を申しあげます。誠にありがとうございました。

 

2013年2月 8日 (金)

江戸検メルマガ 第47号 出題範囲変更

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江戸文化歴史検定メールマガジン 第47
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◎出題範囲を変更します
◎オコトハジメ

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出題範囲を変更します
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高まりのめざましい受検者の皆様の知的探究心にお応えし、第8回江戸文化歴史検定より、出題範囲の一部変更を行ないます。

3級/公式テキスト初級編『大江戸見聞録』約7割+“今年のお題”約2割 ※変更なし
2級/『大江戸見聞録』約1割+公式テキスト中級編『江戸諸国萬案内』約5割+“今年のお題”約2割
1級/公式テキスト上級編『江戸博覧強記』約4割+“今年のお題”約2割

★★本日の問題★★

寛延元年(1748)に初演された竹田出雲らの合作『仮名手本忠臣蔵』は、元禄期の赤穂浪士の討ち入りを扱ったもので、時代や人物設定を、ある物語の世界に置き換えたものです。
さて、その物語とはどれでしょう?

い)『太平記』
ろ)『保元物語』
は)『義経記』
に)『源平盛衰記』

解答解説はこのメルマガの最後にて。

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オコトハジメ
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旧暦2月8日は御事始め。2月9日(土)より、江戸文化歴史検定協会後援の「江戸楽アカデミー春期講座」が開講されます。
既に昨年より申し込み受付が始まって第1期受付が終了しているため、定員に達している講座のご受講はかないませんが、まだ今からお申し込みいただいてもご受講いただける講座も多くございます。
詳しくは、江戸検公式ホームページ内「江戸楽アカデミー春期講座」、または、江戸楽アカデミー【03-3515-6780】にてご確認ください。

■編集後記■■

本年4月2日は、歌舞伎座新開場!!
…なのに、昨年末に中村勘三郎さん、節分に市川團十郎さんと、偉大なる歌舞伎役者が鬼籍に入るという残念な知らせがありました。
このメルマガ読者の方には、ずっと応援してきた方も多いかと思います。
謹んで御冥福お祈り申し上げます。

☆☆本日の解答解説☆☆

い)『太平記』
江戸時代は同時代の武家の事件を劇化することは禁じられていました。
そこで、南北朝時代の軍記物『太平記』のなかの足利尊氏の執事高師直が塩冶判官の妻に横恋慕するが、思いが叶わないことから判官を死に追い込む、という物語の世界を『仮名手本忠臣蔵』は借りています。
そもそもこの設定は、赤穂浪人46人の切腹からわずか3年後の宝永3年(1706)に、近松門左衛門が書き下ろした浄瑠璃『碁盤太平記』に書かれていました。その後も事件は何種類もの作品となりましたが、事件から47年目の寛延元年(1748)、集大成として竹田出雲らによる浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』として成立し、大当たりを取ります。すぐに歌舞伎となり、大坂、江戸で上演され、以後も繰り返し上演される人気狂言となったのです。

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本メールマガジンの著作権は、江戸文化歴史検定協会に帰属します。
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発行・編集:江戸文化歴史検定協会
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2012年12月14日 (金)

江戸検メルマガ 第46号 結果発表&お題

◎間もなく結果発表
◎来年の「今年のお題」
◎憧れのヒーロー

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間もなく結果発表
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第7回江戸検の採点が終わりましたので、13日から採点通知を発送します。
今回は、試験直後より「昨年よりも難しかった。けれど、楽しかった。」と、いう声もいただいておりますが、いかがでしたか?
今回の受検データも公式ホームページに掲載しますので、ご覧ください。

★★本日の問題★★

大石内蔵助が、浅井長矩の正室、瑶泉院から預かった活動資金691両の使い道を詳細に記録した「預置候金銀請払帳」は、討ち入りに至るまでの浪士たちの活動ぶりを現在に伝える貴重な史料です。
では、そのなかで最も支出金額が大きかったのは、どれでしょう?

い)江戸-上方間の旅費
ろ)浅野家再興のための工作費
は)浪士の生活補助費
に)討ち入り用の武具購入費

解答解説はこのメルマガの最後にて。

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来年の「今年のお題」
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メルマガをご覧いただいている方に、特別先行発表!!
第8回江戸文化歴史検定の「今年のお題」は・・・

これが本当の『忠臣蔵』~赤穂事件が“物語”になるまで~」です。

今月の時代劇専門チャンネルでも、「忠臣蔵祭り~7人の大石内蔵助~」特集で番組プログラムが組まれるほど人気がある“忠臣蔵”をお題としました。
様々な説・見方があるお題だけにこだわりがある方も多いかと思いますが、
これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』山本博文著(小学館101新書)を参考書籍としていきます。

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憧れのヒーロー
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勧善懲悪のヒーローは、子供たちを中心に不動の人気がありますが、それは江戸時代も同じだったのではないでしょうか。
そう!第8回江戸検「今年のお題」である忠臣蔵は、まさに赤穂事件を脚色し、物語として現代まで、ずっと愛されてきたヒーローものの代表格です。現在、東京都江戸東京博物館では常設館内にある第2企画展示室にて

企画展「浮世絵の中の忠臣蔵―江戸っ子が憧れたヒーロー

が12月11日~1月27日の間、開催しています。(休館日:12月17日・12月25日~1月1日・1月7日)
12月14日(及び21日)には、16時から30~40分程度のミュージアムトークが実施されます。歌川国芳の武者絵「誠忠義士伝」を中心に展開される展示、是非ご覧ください。
また、新年1月2日からは、「特別展 尾張徳川家の至宝」も開催されます。新年1月2日・3日は常設展へは、無料で入館できます。

■■編集後記■■
2012年は、東京スカイツリーが竣工・開業、金環日食等の天体ショー観測、ロンドンオリンピック・パラリンピックの開催等、様々なことがありました。
これからは忘年会にクリスマス会にと楽しい予定もあるかと存じますが、楽しみ過ぎて、お忘れものに要注意です!!(私は手袋をよく落とします…)
本年のメルマガは今号で最後ですが、来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
それでは、よいお年をお迎えください。

☆☆本日の解答解説☆☆
い)江戸-上方間の旅費
赤穂事件により赤穂城を引き渡すことになり、浅野家の公金も決算しました。元禄14年6月4日に活動資金を預かり、討ち入り直前の翌年11月29日に「預置候金銀受払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)」を提出しています。
内訳は、江戸-上方間の旅費:282両、浅野家再興のための工作費:25両、浪士の生活補助費:60両、武具購入費:9両です。

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発行・編集:江戸文化歴史検定協会 明恵
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2012年12月12日 (水)

江戸三十三観音巡り 第12回 伝通院

【所在地】文京区小石川3丁目14-6
       東京メトロ丸の内線「茗荷谷」駅より徒歩16分
       東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」駅より徒歩12分


 この秋は、毎日文化センターさんの講座に加えて文京学院大学さんの講座でのガイドがあったため、その準備で忙しくて、江戸三十三観音めぐりの記事が書けませんでした。久しぶりに、江戸三十三観音めぐりについて書きましょう。今回は、小石川にある12番札所の伝通院です。

Medium_5  伝通院は、東京メトロ「茗荷谷」駅からだと16分程度、「後楽園」駅からだと12分程度の距離にあります。どちらの駅からも、都バスを利用して「伝通院前」停留所から歩けば2分ほどです。
 正式名称を無量山伝通院寿経寺といいますが、通称伝通院と呼ばれています。「でんつういん」と清音で呼ばれることが多いのですが、正しくは「でんづういん」と濁音です。

 もともとは、南北朝時代の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉上人が開山した浄土宗のお寺でした。開山当時は、小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番の宗慶寺がある場所)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。

 それから約200年後の慶長7年(1602)8月、徳川家康の生母於大(おだい)の方が75歳で伏見城で亡くなった際に、芝増上寺の存応(ぞんのう)上人と相談した結果、この寿経寺を菩提寺とすることになりました。そして、極楽水から現在地に移転し10万坪の面積をもつお寺を造営して、於大の方の法名「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」にちなんで「伝通院」と名付けられたのです。存応上人の高弟正誉郭山和尚が住職となり、幕府から600石を賜っています。

Medium_2  伝通院は、享保6年(1721)、享保10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、その都度、再建されました。しかし、昭和20年5月25日の大空襲で、すべての建物が焼失しました。その後、昭和24年に本堂を再建し、さらに昭和63年に建て替えられたものが、現在の本堂です。
 また、戦災で焼失した山門が、平成24年3月に67年ぶりに再建されました。総ひのき造り、間口10.2メートル・奥行4.8メートル・軒高8.9メートルで、両脇には練塀も造られています。山門の2階には、釈迦如来像が安置されていて、毎月第三土曜日には公開されているそうです。

Photo  伝通院のご本尊は阿弥陀如来です。戦前まで本堂に安置されていたご本尊は戦災で焼失したため、開山堂に安置されていた阿弥陀如来様を本堂に安置なさったそうです。阿弥陀様は江戸時代の作とのことです。
 観音札所としての本尊は無量聖観世音菩薩といいます。この観音様は、昭和51年に信者の方が寄進なさったものだそうで、観音様の前に、寄進者のお名前が掲げられていました。

 このお寺は、教育面でも大きな足跡を残しています。
 江戸時代はじめの慶長18年(1613)には、増上寺の学問僧300人が伝通院に移されて、関東十八檀林(僧の学問修行所)の上席と位置づけられていました。多い時には、学寮に席をおくもの千人以上という状況だったそうです。
 その伝統から、明治24年、芝三縁山増上寺から浄土宗学本校(現在の大正大学の前身)が伝通院へ移され、さらに明治25年には伝通院境内に淑徳女学校が設立されています。淑徳女学校は、現在は淑徳SC中等部・高等部となり、境内脇に校舎を構えています。

 では、伝通院に葬られている人たちについてみていきましょう。

【於大の方】
 伝通院の名前の由来になっている於大の方は、享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野  忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(のちの徳川家康)を出産しPhoto_5ます。
 ところが、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属しました。そのため、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すことになり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されます。

 その後、於大の方は兄信元のすすめによって、天文17年(1547)、尾張国阿久居の城主久松俊勝に再嫁しました。しかし、於大の方は、家康が織田方の人質になってからもつねに衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられています。また、家康が今川義元の人質として駿府にいた際にも、ひそかに使いを送って日用品を届けたと言われています。

 於大の方は、久松俊勝との間に、康元、康俊、定勝の3人の男の子をもうけました。天下統一後、家康は久松家を親戚として尊重します。これが久松松平家です。
 久松松平家は、伊予松山藩や、幕末には桑名藩の藩主になりました。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子に入り、白河藩3代藩主となって、のちに老中となったのです。

 於大の方は、夫の久松俊勝が天正10年(1582)に亡くなると、天正16年(1588)に髪をお ろし、「伝通院」と号しました。上の肖像画は、永禄3年(1560)、母華陽院の死を悼んだ於大の方が、母の像とともに描かせた肖像画です。ふたりの肖像画は、一対として刈谷市の楞厳寺(りょうごんじ)に納められたものといわれています。
 肖像画は、本堂西側にある観音堂の中にある休憩所においてあります。
Medium_6
 於大の方は、家康の天下統一を見届けたのち、慶長7年(1602)8月、家康の滞在する伏見城で亡くなりました。家康は、於大の方の死を悼んで京都の智恩院で葬儀を行ない、江戸に遺骸を送って、伝通院に納骨しました。
 於大の方のお墓は、本堂西側にある、東向きに立った大きな五輪のお墓です。

【千姫(天樹院)】
 伝通院には、有名な千姫をはじめとして、将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されています。千姫は2代将軍秀忠の長女で、母は大河ドラマ『江~戦国の姫たち~』の主人公の江(崇源院)です。

 千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃はまだ豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのです。
 慶長3年(1598)、病床にあった豊臣秀吉は、秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。ふたりの母親である淀君とお江は姉妹ですので、ふたりは従兄弟の関係にあたります。秀吉が死んだのちもこの婚約は守られ、慶長8年(1603)、7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎます。なお、家康がこの政略結婚を仕掛けたという説もあります。

 家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣の際、千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜に脱出して家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。
 翌元和2年、千姫は伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁します。千姫20歳、忠刻21歳でした。

 大坂城脱出の際、家康が「救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り、千姫を救出したという説があります。彼はこのとき顔に火傷をおい、千姫はそれを嫌って本多忠刻に嫁いだので、これに憤った坂崎出羽守が騒動を起こし、殺害されたというのです。
 しかし、これには異説も多く、救出したのは坂崎出羽守ではないという説もあり、千姫の公家への嫁入りをまとめた坂崎出羽守が、面目をつぶされたことを怒って騒動を起こしたという説もあります。

 元和3年に忠政が姫路へ転封となったので、千姫は忠刻とともに姫路城に住むことになります。千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。寛永3年(1626)、30歳になった千姫は勝姫とふたたび江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫とふたりで江戸城内の竹橋御殿に住みました。

 ところで、忠刻が亡くなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡も、千姫の乱行をうたったものと言われています。しかし、これはまったく根拠のない話のようで、こんな俗説がなぜたてられたのか、疑問に思います。

 寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)はひとり暮らしになりまし た。正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方(のちの順性院)が、三男綱重を懐妊しました。この時、家光は厄年にあたっていたため、災厄を避けるために千姫(天樹院)を綱重の養母としました。そのため、Medium_7千姫はお夏の方(のちの順性院)や綱重と暮らすようになります。

 千姫(天樹院)は、寛文6年(1666)に70歳で亡くなりました。法事は、千姫が養母となっていた綱重が執り行なったそうです。千姫も伝通院に葬られており、本堂西北の少し低くなった場所に、五輪の大きなお墓があります。

【家光の正室孝子(本理院)】
 伝通院には、於大の方や千姫のほか、たくさんの徳川家関係者が葬られていますが、その多くは、将軍の正室や側室です。3代将軍家光の正室だった鷹司孝子(のちの本理院)も、伝通院に埋葬されています。

 鷹司孝子は、はじめて摂関家から将軍正室に迎えられた人です。3代将軍家光は、「生まれながらの将軍」だったため、大名より位の高い摂関家から正室が求められたのです。これ以降、将軍の正室は、摂関家または宮家から選ばれるようになりました。
 孝子は慶長7年(1602)に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。元和9年(1623)12月に西の丸に入り、寛永2年(1625)に将軍家光と正式に婚礼を行なって御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。

 しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はなかったようです。孝子は本丸大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住まされ、「中の丸殿」と呼ばれました。幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。このため、当然のごとく、家光との間に子どもはありませんでした。
 このように夫婦仲が円満でなかった理由は、家光と孝子の間に子どもができて、朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が、作為的に不仲にしたという説や、家光が男色好きで孝子を顧みなかったという説など、いろいろあげられています。Medium_8

 慶安4年(1651)4月に家光が48歳で亡くなると、孝子は落飾し、「本理院」と名乗ります。孝子は延宝2年(1674)に、73歳で亡くなりました。
 孝子のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に、南に面して立っています。

【浪士組】
 伝通院は、新選組の母体となった浪士組が結成された場所としても有名です。
 浪士組結成のきっかけをつくったのは、出羽国庄内藩出身の清河八郎です。文久2年8_medium(1862)、清河が時の幕府政事総裁(従来の大老にあたる役)の松平春嶽に、急務三策(①攘夷の断行、②大赦の発令、③天下の英材の教育)を建言しました。尊攘志士に手を焼いていた幕府は清河の建言を採用し、文久3年2月4日、浪士組が小石川伝通院の塔頭処静院(しょじょういん)において結成されることになります。浪士組の山岡鉄舟と親しかった処静院の住職が、結成のための場所を提供したと言われています。

 浪士組は、当初の予定では50名を定員としていましたが、清河による仲間の勧誘もあって、最終的には234名の浪士が集まります。浪士組の中には、のちに新撰組を結成する芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司なども入っていました。浪士組は2月8日に江戸を出発し、京都に向かいました。

 処静院は現在の伝通院の西側にありましたが、廃寺となってしま9_mediumいました。処静院があ った場所の近くには、現在、文京区教育委員会の説明板が設置されています。また、伝通院の山門の脇には、処静院の門前に設置されていたという「戒律を守らない人は境内に入ってはいけない」という意味の「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた石柱が残されています。
 清河八郎のお墓も、この伝通院にあります。

2012年10月19日 (金)

江戸検メルマガ 第45号 受検票発送のお知らせ

◎受検票、発送しました
◎今年も当日申込
神田の祭り

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受検票、発送しました
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受検のお申し込みいただいた皆様、受検票はお手元に届きましたか?
届きましたら、受検番号・試験時間・注意事項など、よくご確認ください。
もし、試験日5日前になっても届かない場合や記載事項に誤りがあった場合には、江戸文化歴史検定協会事務局[03-3515-6954]までご連絡お願いします。

★★本日の問題★★

江戸の人口についての説明として正しいのは、次のうちどれでしょう?

い)町人の男女比は、享保期にはほぼ同数となった
ろ)町人の人口は、享保期には100万人を超えた
は)天保期には、他所出生者が50万人を突破した
に)天保期には、町方人口の20~30%は他所出生者だった

※享保期=1716~36年・天保期=1830~44年

解答解説はこのメルマガの最後にて。

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今年も当日申込
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この機会を狙っている方もいるらしいと噂の飛び入り受検
今年も実施しちゃいます。

受付開始時間/10月28日(日)8:30より[全級共通]
受付・試験会場/明治大学駿河台校舎リバティタワー
定員/3・1級=30名、2級=30名[先着順]

申込受付を当日に行なうため、受検料は釣り銭の要らぬようご用意ください。
また、1級受検希望者は2級合格認定証のご持参をお忘れなく。
その他詳しくは、江戸検公式ホームページをご覧ください。
http://edoken.shopro.co.jp/news/121015_tobiiri/index.html

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神田の祭り
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・・・天下祭じゃありません。
毎年、検定同日開催で恒例となりました
「検定まつり~検定あれこれ大集合~」
検定日である10月28日には、世界一の古本街・神田神保町で開催される「神保町ブックフェスティバル」のイベント会場の一画で全14種類のお試し検定試験を実施します。合格者へは賞品もあります。
参加費無料ですので、お気軽にどうぞ。
また「神田カレーグランプリ」「神田スポーツ祭り」など同時開催されているイベントが盛り沢山。
試験が終わったら、お祭りに繰り出しましょう!

■■編集後記■■

急に秋めいて、涼しくなってきました。体調を崩されてはいませんか?
試験前日27日は十三夜。十五夜に次いで美しいとされる「後の月」は先日の大雨だった十五夜と異なり、“十三夜に曇り無し”と言われています。満月ではありませんが、美しい月を見上げてみるのも良いですね。
私には栗名月や豆名月という名称も魅力的ですが。。。

☆☆本日の解答解説☆☆

に)天保期には、町方人口の20~30%は他所出生者だった

江戸は「百万都市」といわれていますが、町方人口は概ね50万人程度とされ、武家人口も実数は不明ながら、同程度とされています。
町方人口が50万人を超えたのは、享保6年11月の調査で確認され、天保3年5月の町方人口のデータでは、総人口545,623人中江戸出生者が414,774人、他所出生者が130,849人となっています。

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発行・編集:江戸文化歴史検定協会 明恵
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2012年9月28日 (金)

江戸三十三観音巡り 第11回 円乗寺

【所在地】文京区白山1-34-6 都営地下鉄三田線白山駅より徒歩10分

 円乗寺は、都営地下鉄「白山」駅A1番出口から徒歩2分の距離にあります。

Photo_14 旧白山通りから旧中山道に向かう上り坂(「浄心寺坂」別名「於七坂」)を少し入ると北側に参道があります。参道入り口には、「江戸三十三観音札所第十一番聖観世音菩薩」の看板があり、「お七地蔵堂」もありますので、すぐにわかります。

 江戸時代には、境内が1770坪もあったそうですが、戦後期の混乱もあって、現在は、両側がマンションや住宅に囲まれた細い参道となっています。

  

Photo_22 円乗寺の入り口西側に「お七地蔵堂」があります。この「お七地蔵堂」に祀られている「八百屋於七地蔵尊」は、八百屋お七が在世の時に所持していた地蔵尊と伝わっているものです。昔から縁結び・火伏の御利益があると信じられていて、現在でも多くの人々の信仰を集めています。

Photo_30 円乗寺の創建時期は、文京区の説明では天正9年(1581)に開創されたとありますが、「御府内寺社備考」という書物には元和6年(1620)川越の喜多院に住する宝仙法印により起立されたとも書かれていて、明確なことは不明のようです。

 当初は、本郷の加賀金沢藩の御屋敷(現在の東京大学)の近くにあり、密蔵寺といいましたが、後に円乗寺と寺号が変わりました。明暦3年(1653)に起きた明暦の大火のため本郷の用地が収公されたため、現在地に移転しています。

  

Photo_24  参道をまっすぐ進むと、正面に本堂があります。戦災で焼失してしまい、戦後再建されました。


 円乗寺のご本尊様は釈迦牟尼仏です。
本堂中央に鎮座していらっしゃいました。その脇に札所ご本尊様である聖観世音菩薩像が鎮座されています。

5_3戦前、円乗寺には秘仏の聖観世音菩薩像がありましたが、戦災で焼失してしまい、この観音様は、「昭和新撰江戸三十三観音札所」が昭和51年に再興されるのに合わせて造立されたものだそうです。

そして、ご本尊の脇には、八百屋お七の御位牌がありました。「妙栄禅定尼」と八百屋お七の戒名が書かれています。
 本堂内には、八百屋お七の絵も飾られています。

Photo_26 円乗寺は、なんといっても八百屋お七のお墓があることで有名です。
そこで、「お七火事」や「八百屋お七」について書いてみます。

 天和2年(1682)12月28日に大火事が発生しました。この大火事は天和の大火(てんなのたいか)と呼ばれ、江戸十大大火の一つに挙げられほどの大火でした。この火事が俗に「お七火事」とも称されます。駒込の大円寺から出火したとされ、28日正午ごろから翌朝5時ごろまで、下谷・浅草・本所・本郷・神田・日本橋まで延焼し続けました。

 この大火で焼失した大名屋敷は、火元近くの加賀藩、大聖寺藩、富山藩の各前田家や村上藩榊原家、津藩藤堂家、対馬藩宗家など73家。旗本屋敷は166家、寺院は霊巖寺など48ケ寺、神社47社という数字も残されています。
亡くなった人は3500名余と推定されています。
 
松尾芭蕉は、このころ深川の芭蕉庵に住んでいましたが、芭蕉庵もこの天和の大火で燃えています。

この火事が「お七火事」とも呼ばれるのは、翌年にお七の放火による火事が起き、これと混同して「お七火事」と呼ばれるようになったと思われます。

 お七の放火による火事は、ボヤ程度のもので、大火というほど大規模なものではなかったようですが、あまりにも印象が強かったのでしょう。大火だろうという思い込みから、前年の大火が「お七火事」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

7_4 八百屋お七については、有名な話ですが、井原西鶴の『好色五人女』に書かれている内容をはじめ、諸説があります。その中で、最も事実に近いのだろうと言われているのが『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』です。

 
 それによると、お七の生家は本郷の森川宿(現在の東大正門向かい側の北側辺り)の八百屋でした。父は市左衛門(『好色五人女』では八兵衛となっている)といい、加賀金沢藩前田家に野菜を納めるほどの大きな八百屋だったようです。


 天和の火事で、森川宿に住んでいた八百屋の市左衛門の一家も焼け出されました。そのため、市左衛門は女房や娘のお七と一緒に、駒込の円乗寺(『好色五人女』では吉祥寺となっている)に避難しました。

菩提寺と書いたものもありますが、円乗寺の市原ご住職によると、円乗寺はお七の家の菩提寺ではないとのことであり、円乗寺が駒込に移転する前はお七の家と近い本郷にあったので、お七一家は円乗寺に避難したのではないだろうかということです。この時にお七は円乗寺の寺小姓、生田庄之助(『好色五人女』では小野川吉三郎、文京区教育委員会の案内板では「佐兵衛」となっている)と恋仲になりました。


 やがて自宅が再建され、お七は家に戻りましたが、恋仲になった生田庄之助に会いたい一心で、天和3年3月2日、付け火をします。
付け火はすぐに発見され、消し止められました。お七は付け火の道具を持ってさまよっていたため、すぐに捕えられました。

火事はボヤで済みましたが、江戸時代は放火は大罪です。放火の罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火あぶりの刑にされました。


 この時、お七は16歳でした。江戸時代は、罪に問われるのは15歳以上であり、15歳未満であれば無罪となります。
町奉行の甲斐庄(かいしょう)正親は、なんとかお七を助けてやりたいと思い、「14歳だろう」と問います。しかし、お七は正直に16歳ですと答えたため、鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられてしまったという話が伝えらえています。
 
ただし、実際に八百屋お七を捕まえたのは、火付改役(ひつけあらためやく:後の火付盗賊改役)の中山勘解由(なかやまかげゆ)です。


 このお七の放火は、さまざまな創作物で取り上げられ、大変有名になりました。
そのうち最も有名なものが、井原西鶴が書いた小説『好色五人女』です。 

また、歌舞伎・浄瑠璃にも数多くの作品があります。代表的なものとして「八百屋お七歌祭文」「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」があげられます。さらに、「お七」という落語にもなっています。

その八百屋お七のお墓が、円乗寺参道西側にあります。昔は屋根がなかったそうですが、現在は屋根が造られています。

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9_7 お墓は
3基あります。中央は、円乗寺の住職が供養のために建てたものです。お墓が丸く削られていますが、これは、一時期、お七のお墓を削った石粉をもっていると御利益があるという噂がひろまり、墓石が削られてしまったと市原ご住職が話されていました。

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右側は、寛政年間に歌舞伎役者の岩井半四郎が建立したお墓です。岩井半四郎がお七を演じた縁で、建立したものです。

 
墓碑正面に「妙栄禅定尼」とお七の戒名が刻まれています。墓碑右脇に建立時期が刻まれていますが、寛政という文字は読み取れましたが、建立した年は不明でした。


11_2 左側のお墓は、近所の有志がお七の270回忌法要のために建てたものです。


 お七のお墓には、いつお参りしてもきれいな花が手向けられています。円乗寺の人が手向けているようですが、大変気持ちの良いものです。
また、お墓の脇にはノートが置かれていて、参拝者の願いごとや感想が書かれています。願いごとは、恋愛成就と諸芸上達が多いようです。

 最後に、円乗寺で珍しいおみくじを紹介されました。水で溶けるおみくじです。順に写真を撮りましたので、ご覧ください。

①おみくじは細く丸められています(写真左上)
②ほどいたおみくじを、つくばいに入れます(写真右上)

③おみくじがだんだん水に溶けていきます(写真左下)
④あっというまに、おみくじが水に溶けてしまいました
(写真右下)

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八百屋お七のお墓参りした後に、試してみてはいかがでしょうか。

●夢見る獏のブログ『気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録』もあわせてご覧ください。
http://wheatbaku.exblog.jp/

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