2012年1月13日 (金)

江戸三十三観音巡り 第7回 心城院

Photo 第7番札所 心城院 (東京メトロ湯島駅3番出口徒歩2分)

 

【心城院由来】

 心城院は「しんじょういん」と読みます。

 心城院は、湯島天神と関係の深いお寺です。

 江戸時代は神社とお寺が一体となっていました。そのため、神社に付属して、神社の管理やお祀りをおこなうお寺が神社の境内にありました。これを別当寺といいます。

 湯島天神の場合には、喜見院という別当寺がありました。

湯島天神は、いうまでもありませんが菅原道真が祭神ですが、菅原道真は、藤原時平の讒言により 九州へ流されたとき、聖天様を篤く信仰され、冤罪がそそがれるよう聖天(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)様に深く祈念されたそうです。 

5代将軍綱吉の治世の元禄7(1694)年、湯島天神の別当寺であった喜見院の住職 第三世宥海大僧都が、菅原道真の信仰していた聖天様を湯島天神境内にお祀りしました。

その聖天様は比叡山から勧請したもので、慈覚大師作と伝えられています。

この聖天様は湯島の聖天さまとして、江戸っ子から篤く信仰され、有名な紀国屋文左衛門も帰依したと言われています。

江戸時代の喜見院は相当の境域があったそうですが、明治維新の神仏分離令の影響で廃寺となってしまいました。

もともと喜見院の弁天堂であった現在の心城院も廃寺の運命にあるところでしたが、運よく、その難を逃れました。そして、寺名を心城院と改め、建立当時の経緯から天台宗に属し現代にいたっているそうです。

 

 心城院は湯島天神の男坂の坂下にあります。写真正面が湯島天神の男坂で右側に幟が翻っているお寺が心城院です。Photo_3

 湯島といえば天神様ということで湯島天神を多くの人がお参りしますが、この心城院というお寺を拝観する人は少ないだろうと思います。しかし、心城院の境内は狭いながら、拝観する価値が大いにあるお寺だと思います。


【聖天様】

ここで「聖天様」について説明します。

聖天様は、歓喜天・歓喜自在天・大聖歓喜天ともいい、「しょうてん」様、「しょうでん」様と二通りで呼ばれますが「しょうでん」様のほうが正しいようです。

元々、ヒンズー教で信仰されている象頭人身のガネーシャという神様が仏教に取り入れられたものだそうです。
 大変霊験あらたかで、仏教の守護神として崇拝されています。そのため、菅原道真も聖天さまに帰依されたそうです。
 聖天様の像には単身の象頭人身の像と双身の像とがあるそうです。

しかし、聖天様は秘仏中の秘仏とされ、一般の人は絶対見られないそうです。

心城院でも聖天さま独特の修法である浴油供つまり聖天様に油を浴する修法をご住職だけで行っているとのことでした。

聖天様を祀るお寺には、シンボルとして巾着袋(砂金袋)と大根を図案化したものが多く見られます。大根は身体を丈夫にし、良縁成就、夫婦和合のお加護があるそうです。

巾着は商売繁盛を表すそうです。

Photo_4 心城院でも各所に巾着袋と大根があります。写真は外陣上の幕にも巾着袋と大根が刺繍されていました。(○写真)

 

さて、心城院の札所ご本尊さまは十一面観音様です。

お聖天さまは仏さまである十一面観世音菩薩さまが化身された神様ですので、聖天様が心城院のご本尊ですから、まさに一体となってお祀りされているといえます。

札所ご本尊さまが安置されている内陣には入れませんが、外陣に写真が掲示されていました。(○写真)Photo_5

心城院はもと喜見院の弁天堂であったため、弁財天さんもお祀りしてあります。宝珠弁財天といいます。また大黒天も祀られています。

 

【江戸時代の仏具】

心城院は、何回も発生した江戸の大火や関東大震災や東京大空襲の戦災にも幸いなことに遭いませんでした。

火災にあっていないため、仏具類は江戸時代のものがそのまま残っています。

本堂内にある花瓶、灯篭、ろうそく立て、香炉も大部分が江戸時代のものです。

Photo_6 写真の香炉には文政という年号が確かに刻まれていました。

江戸時代の仏具が残っているのは大変貴重なものです。さらに驚くのはこれが見事に磨かれていることです。 ご住職の日ごろの手入れの良さのなせる業だと思いました。

なお、堂内は原則写真撮影禁止ですが、ご住職のご配慮により撮影させていただきました。

 

【柳の井戸】

本堂の前に手水があります(○写真)が、これは「柳の井戸」と呼ばれている江戸名水の一つです。 心城院は「柳の井戸」があることから「柳井堂(りゅうせいどう)」とも呼ばれます。Photo_7

江戸時代の【紫の一本(ひともと)】という本に次のように書かれているそうです。 
 『この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり』
 この名水で髪をあらうと柳の葉が風になびくように髪がさらさらとしたということのようです。

この名水は関東大震災の時、湯島天神の境内に避難した人々の飲料水となり多くの命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けたそうです。

現在、水はポンプでくみ上げられていますが、保健所からも飲用してもよいとのお墨付きをもらっているとのことで飲むことができます。実際に飲んでみるとまろやかな味がしました。

保健所から水が飲めると言うお墨付きをもらえるのは現在ではまれなことでます。

 

Photo_9 また境内の弁財天放生池は今は小さな池となっています。(○写真)

しかし、江戸時代の江戸砂子という本に
 江戸砂子に言う、此所の池は長井実盛(後に斉藤別当実盛になる)庭前の池と伝ふ。

 昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり。
と記され、昔はかなり大きな池だったようです。

昔から病気平癒などの祈願に縁起の良い亀を池に放したため、「亀の子寺」として親しまれていました。 しかし、最近、池を改修して以降は亀がうまく育たなくなってしまったそうです。

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2011年12月26日 (月)

江戸検メルマガ37号 採点通知発送!今年のお題発表

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採点通知の発送
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10月30日にご受検いただいた皆様、ありがとうございました。
「採点通知」を発送致しましたので、近日中にはお手元に届くかと思います。
ご査収のほどよろしくお願い申し上げます。

★★本日の問題★★
徳川将軍家は源氏の子孫と称していました。そのため、源氏の氏神にもあつい信仰があったといわれています。
では、次のうち源氏の氏神を祀った神社はどれでしょう?

い)亀戸天神
ろ)神田明神
は)富岡八幡宮
に)日光東照宮

解答解説はこのメルマガの最後にて。

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速報!今年のお題の発表
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第7回(平成24年秋予定)江戸文化歴史検定の“今年のお題”が決まりました!!

「徳川将軍15代~最高統治者の個性で読み解く264年」

徳川将軍15代の生涯を見なおし、政治経済や文化等がどのように変化し、成長していったのかを考えます。
参考書籍は小学館101新書『徳川将軍15代-264年の血脈と抗争(』山本博文 著)です。
ぜひ、書店で手にとってご覧ください。

■■編集後記■■
師走です。2011年も残り15日ですが、どんな1年でしたか?
今年の漢字「絆」、絆の持つ力・大切さに気づくことができた年になったという方も
少数ではないのでしょうか?
嬉しい時も辛い時も、人との繋がりがあります。過去と未来も繋がっています。
「江戸時代の文化・歴史・生活などを知り、今日に役立て、未来へ継承する」
という江戸検開始当初からの事業目的。その心意を日常にも反映していけるよう
今後も心がけていきたいと思います。

☆☆本日の解答解説☆☆
は)富岡八幡宮
徳川の祖先とされる、天皇家の血を引く源氏「清和源氏」が八幡神を氏神と仰いでいたため、徳川将軍家は八幡神を尊崇していました。
寛永4年(1627)創建の富岡八幡宮は代々の将軍の庇護を受け、広大な社地を有した江戸第一の八幡宮でした。

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2011年11月18日 (金)

江戸三十三観音巡り 第6回 清水観音堂

第6番札所 清水観音堂 (JR上野駅公園口徒歩6分)

 

 

1  江戸三十三観音めぐりの第6番札所は、上野の清水観音堂です。

 清水観音堂は、寛永寺の一部です。

寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。

天海大僧正は、上野に比叡山延暦寺に倣って「東叡山寛永寺」を開きました。
 比叡山が京都御所の鬼門を守護していることから、寛永寺は江戸城の鬼門の守護する役割をもっていました。
 
次々と建立した建物も、比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとなっています。

不忍池は琵琶湖に模していて、不忍池の弁天堂は琵琶湖の竹生島を模したものです。

そして、清水観音堂は、京都の清水寺を模したものです。

 

清水観音堂

 清水観音堂は、寛永8年(1631)に、天海大僧正によって創建されました。

当初、現在地より100メートル余り北方の摺鉢山上にありましたが、元禄7年(1694)現在地に移築されました。

建物は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺です。

不忍池に臨む正面の舞台造りは、京都の清水寺のものを模したものです。

江戸時代にも浮世絵に描かれるなど、著名な風景でした。
 平成2年より全面的な解体・修復工事を実施し平成8年5月に完成しました。国の重要文化財に指定されています。2

 

ご本尊は千手観世音菩薩像で、平安時代の高僧恵心僧都の作と言われ、京都清水寺より奉安したものだそうです。

このご本尊は、長門本「平家物語」に書かれた壇ノ浦の戦いで敗れ鎌倉に送られた平盛久を救ったという伝説のある「盛久受難の身代わり観音」としても知られています。

観音様は秘仏で厨子内に安置されていて通常は拝観できませんが、毎年2月の初午の日には開扉され拝観できます。

 

3 4 脇本尊の子育観音は、子供に関する願いをかなえていただけるとして多くの人々の信仰をあつめていて、特に子授けは霊験あらたかだそうです。子授札が2千円、子授祈願のロウソクが1本1千円でした。

子育観音様への願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納します。そのため、子育観音の脇には奉納された人形が並んでいます。

毎年925日には、奉納された人形を供養する人形供養が行われます。境内には人形供養之碑も建立されています。

 

多くの人が見過ごしてしまうかもしれませんが堂内には5枚の大きな絵馬が掲げられています。

江戸時代のもの2枚、明治時代のもの2枚、平成になって奉納されたもの1枚が掲げられています。

入口の上に掲げられている絵馬が江戸時代に奉納されたものです。

写真の手前が宝暦7年(1757)の「景清牢破り図」、奥が寛政12年(1800)の「盛久救難図」です。

 

 

秋色桜(しゅうしきざくら)5

 清水観音堂の周辺には、西郷隆盛銅像、彰義隊士の墓など見るべきものがありますが、それらはかなり知られていますので、あまり知られていない「秋色桜」を紹介します。

上野は、現在も桜の名所ですが、江戸のはじめから桜の名所として知られていました。

数多くの桜の中で、固有の名を付せられた樹も何本かあったそうですが、代表的なものが、この『秋色桜』です。

「秋色」というのは人の名前です。

元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が次のような句を読みました。

 井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔

 桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となりました。

お秋は当時13歳だったと伝えられています。あ秋は、宝井其角に俳句を学んでいて俳号を菊后亭秋色といいましたので、以来この桜は、『秋色桜』と呼ばれています。

ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいう説もあり正確な井戸の位置についてはハッキリしていないそうです。

現在の桜は、昭和53年に植え接いだもので、およそ9代目にあたると推定されています。

現在の桜の品種名ヤエベニシダレのようです。

 写真は、秋色桜が満開の時に撮ったものです。非常に見事です。

桜の脇にる碑は、昭和15年10月に建てられたものです。

 

 

 最後に、寛永寺の歴史について略記します。少し長くなりますがちょっとお読みください。

 

Shukushou 寛永寺の歴史

寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。

寛永寺の正式な名前は、東叡山寛永寺円頓院といいます。

開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来です。

天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた大僧正です。

天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。

そのことを知った秀忠は、元和8年(1622)、現在の上野公園の地を天海に与えた。

当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公してお寺の敷地としました。

秀忠が隠居した後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立されました。

寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多いのです。

天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立しました。

寛永寺は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立されました。

これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。
 そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。

そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。

 年号が、お寺の名前に使用されているのは、ほかに仁和寺と建長寺があるくらいであり、非常に稀な例です。

また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。

寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約30万5千坪に及び、さらにその他に大名並みの約1万2千石の寺領を有しました。

そして現在の上野公園の噴水広場にあたる「竹の台」には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が、元禄11年(1698)に、5代将軍徳川綱吉により建立されました。

また、現在の東京国立博物館の敷地には寛永寺本坊がありました。本坊というのは寛永寺の住職である輪王寺宮が生活していた場所です。

さらに清水観音堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が並び立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。

こうした壮大な伽藍も上野戦争で大部分が焼失してしまいました。その中で、清水観音堂は焼失を免れた貴重な建物です。

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2011年11月 1日 (火)

第6回江戸検終了しました

10月30日日曜日、第6回江戸文化歴史検定が終了しました。受検者のみなさまお疲れさまでした!
昨年は台風が来るのか来ないのか最後までやきもきしましたが、本年は朝方は青空も見えたほどの検定日和(?)でした。これも、受検者のみなさんの心がけが良かったからですねv(^^)。

ところで、手応えは如何でしょうか?いや、そんな事をもう考えたくない?
しばらくは、勉強も忘れてのんびり過ごしたい気分ですね。

気分転換に千葉市美術館で行われている『酒井抱一と江戸琳派』展はいかがですか?今年一番ではないかと噂されている充実の展示です。あ、これも江戸でしたっけ(^^;)。

そのほかにも各地で文化の秋の企画が盛りだくさんです。
そのうえ、ことしは紅葉もゆっくりとやってきそうなので、アウトドアも長く楽しめそうです。行楽日和も続いています。

疲れを癒して、発表日をお待ち下さい。(彦)

2011年10月29日 (土)

江戸検メルマガ 直前号 いよいよ明日は江戸検本番!

いよいよ明日10月30日は、第6回江戸文化歴史検定試験です。

試験対策は万全でしょうか?受検票に筆記用具・時計等の準備はOKですか?

天気予報ではまずまずの天気。夕方ぱらりと雨が降るかも?といった程度で、大荒れはありません。

今晩は体調をしっかり整えて、これまで身に付けた知識を存分に発揮してください。

 

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作問委員会からヒトコト

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今年のお題“江戸の名所~緑あふれる世界有数の都市~”対策にはこの本。

『江戸の名所 お上り武士が見た華の都』(小学館101新書)です。

これを読めば、半分以上は分かるかも!?

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2011年10月27日 (木)

1級合格者村上瑛二郎さんの講義が行われました

Img_0002 10月26日、文京学院大学生涯学習センターで、第1回1級合格者の村上瑛二郎さんが、江戸学の講義を行いました。
講座はこの26日と、11月9日の2回にわたって行われるもので、定員数20名を大幅に上回る応募があり、村上さんの決断で、倍の40名の方が受講しました。江戸検受検者もかなり参加していました。

講座名は題して「江戸を学ぶ 大名ってなんだろう」。あらためて聞かれると、なかなか難しい質問ですね。
大名の「官位」、「格」、「賞罰」などを、豊富なエピソードを交えての講義で、1時間半という時間があっというまに過ぎたほどの面白さです。
官名や賜姓(松平の姓をもらう)、賜諱(将軍の名から1字もらう)など、江戸検受検者にとっても勉強が難しいものですが、村上さんの講義はきわめて平明で、初心者にも十分理解できました。

次回の第2回は皇居東御苑においての現地講座が予定されています。増えてしまった受講者に対応するために、先頃草思社から『TOKUGAWA15』を出版した、第2回の1級合格者、堀口茉純さんが友情応援に駆けつけてくれる事になっています。(彦)

2011年10月24日 (月)

江戸検メルマガ第36号 受検票発送しました

今号のメニュー
◎受検票を発送しました
◎本年も当日受検受付

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受検票を発送しました
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受検される皆様、受検票はお手元に届いていますか?
10月17日に全受検者へお送りしておりますので、まだ受検票が届いていない、住所や氏名が誤っているという方は、江戸文化歴史検定協会[03-3515-6954]までご連絡下さい。

★★本日の問題★★
馬喰町周辺には、諸国から裁判のために江戸にくる人々を泊める宿屋が多くあったといわれ、訴訟手続きの代行などもしていました。では、その宿屋は何と呼ばれたでしょう?

い)裁許宿
ろ)訴人宿
は)木賃宿
に)公事宿

解答解説はこのメルマガの最後にて。

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本年も当日受検受付を実施します
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本年は申込締切が延長になり、もしかしたら実施できないかも、と思われていた試験日当日に受検受付する「飛び入り受検」。
お申し込み忘れた方を始め、同時開催している神保町ブックフェスティバルへお越しくださっていた方や付き添いで明治大学へいらした方にも受検していただきたい!ということで、今年も実施することになりました。
各級とも10月30日の午前8時30分から明治大学駿河台校舎にて先着順で受け付けますので、この機会を是非ご利用ください。
※3・1級=計30名定員/9時45分締切、2級=30名定員/13時締切

■■編集後記■■
10月20日といえば、えびす講。ということで東京日本橋・宝田恵比寿神社の「べったら市」宵宮へ行ってきました。
「寳田神社」と駒札が掲げられた御神輿や露店が約500店も軒を連ねる例大祭の雰囲気には、今なお引き継がれている江戸を感じました。
某ラジオ番組でリスナーに聞いた「日本がもっと発信すべきものはコレだと思う!」というアンケートでも35%の方が伝統文化を挙げています。
改めて江戸検が日本の素晴らしい文化を伝承するきっかけになれれば幸甚に存じます。

☆☆本日の解答解説☆☆
に)公事宿
江戸時代の裁判は現在と異なり、地方で起きた事件でも江戸の奉行所へ訴状を提出しなければならない場合がありました。
奉行所の召喚にはすみやかに応じることが定められていたので、訴訟関係者が江戸では差紙の発送や弁護士の役割なども果たした公事宿に宿泊しました。

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2011年10月 7日 (金)

江戸三十三観音巡り 第5回 大安楽寺

しばらく間のあいた「江戸三十三観音めぐり」をひさしぶりに投稿します。

 今回は、第5番札所の「大安楽寺」です。

Cimg2356  大安楽寺は、東京メトロ「小伝馬町」駅の上にありますので、駅から至近距離にあります。

 

【小伝馬町牢屋敷】 

大安楽寺は、江戸時代は、小伝馬町牢屋敷があった場所に建っています。

大安楽寺が建立された経緯も小伝馬町牢屋敷があったことがきっかけになっていますので、まず小伝馬町牢屋敷について書いていきます。

 

小伝馬町牢屋敷は、言い伝えによると、天正年間(157392)に常盤橋外に牢屋ができて、それが慶長年間(15961615)に小伝馬町に移されたとされています。

江戸時代の初めから江戸時代を通じて、ここにあって、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されました。

 

 牢屋敷というと刑務所と思う方が多いと思いますが、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑がありませんでした(永牢という長期間収監する刑が例外的にあります)。

ですから、この牢屋敷は、刑が決まるまでの一時的な収容所という施設、今で言うと未決囚の収容施設(拘置所)でした。

 

牢屋敷は、約2、700坪ありました。現在の十思公園のほか、隣の十思小学校(今は十思スクェアと呼ばれています)と大安楽寺や身延山東京別院や民家のある場所を含めた範囲でした。

 牢屋敷は、町家のなかに位置し、周囲には 高さ7尺8寸(2m36cm)の練塀(ねりべい)を巡らし、練塀の外側に堀がありました。

牢屋敷の表門は西側にあり、東側に裏門がありました。

屋敷内の南側には、牢屋奉行の屋敷や役人の詰め所があり、牢屋は北側にありました。

 

【十思の由来】

小伝馬町牢屋敷の大部分は、現在、十思公園と十思スクエアになっています。

十思というのは、あまり聞きなれない言葉です。

明治になってから、ここの学区が第十四小区であったことから、中国の宋の時代の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の中にある「十思之疏(じっしのそ)」の十思の音が十四に通じるところから「十思小学校」と名づけられました。

十思之疏(じっしのそ)とは、「資治通鑑(しじつがん)」の中で唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十ケ条の天子のわきまえなければならぬ戒めです。

十思学校の東隣にある公園も小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。

 

【大安楽寺は名の由来は、大倉と安田から?】Cimg3962

さて、大安楽寺は、高野山真言宗のお寺です。

大安楽寺の塀には、「伝馬町牢処刑場跡」と書いてあります。その名のとおり、大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷の刑場の跡に建立されたお寺です。

明治の初年、ここを通った高野山の山科俊海というお坊さんが燐の火が燃えているのを見て、霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ち、明治8年にお寺を建設されました。

その頃、一坪100円程度した土地の値段が、ここは牢屋敷の跡だということで、3円50銭だったそうです。

建立に際して、大倉財閥創業者の大倉喜八郎と安田財閥の創業者安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われています。

しかし、本当は 「理趣経」に基づく寺号とのことです。

 

大安楽寺のご本尊は弘法大師様で、札所ご本尊様は十一面手観世音菩薩像です。

ご本尊様は、団体でお参りする際には拝観できるそうですが、一人で札所めぐりをしている場合には、お断りしているというのがご住職のお話でした。

5人程度でお参りするのであれば、法事等がなければ拝観させていただけるそうです。

私は一人でお参りしたのでご本尊様を拝観することはできませんでした。

十一面観世音菩薩像の高さ18センチあまりで、台座を入れても30センチに満たない大きさとのことです。

 

Cimg4696 【延命地蔵菩薩像】

 大安楽寺の境内に延命地蔵菩薩像が建っています。

実は、このお地蔵様がたっているところで、死刑の人たちが処刑されました。

土壇場という言葉はご存知だと思いますが、斬首される場所のことを土壇場と言います。土壇場の語源は、牢屋敷にあったことになります。

延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立されました。

台座の下の部分に供養の言葉が書かれています。

「為囚死群霊離苦得脱」と書かれています。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」と呼ばれる山岡鉄舟が書いた文字です。

安政の大獄で処罰された吉田松陰もここで処刑されました。そのため、隣の十思公園内に「吉田松陰終焉の地の碑」が建てられています。 

 

地蔵菩薩像の隣のお堂の中には、江戸八臂弁財天様が祀られています。

八臂(はっぴ)とは8つの腕という意味です。この弁財天様は、北条政子の発願で作られたと伝わっているそうです。

 

【吉田松陰終焉の地の碑】Cimg3971

大安楽寺の隣の十思公園内に「松陰先生終焉之地」と刻まれたが建てられています。

吉田松陰は、2回、小伝馬町の牢屋敷に入っています。

一度目は 安政元年(1854年)のペリーの2回目の来航の時に、アメリカに密航しようとして、果たせず、下田奉行所に自首した後、この牢屋敷に入っています。

2度目は、安政の大獄で牢に入れられます。安政の大獄は、特に水戸藩や一橋派を標的にしたものでしたので、吉田松陰は、それらに関係して訳ではなかったので、遠島ぐらいと思われていましたが、斬首の刑となってしまいました。これは井伊大老の指示だったという説もあります。

1859年(安政6年)10月27日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。

「松陰先生終焉之地」の碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたもので、当初は十思小学校の校庭にあったそうですが、GHQの命令で、こちらに移転したそうです。

この碑は、松蔭のお墓ではありません。お墓は、世田谷の松蔭神社、千住の小塚原回向院、萩の吉田家の墓地にそれぞれあります。

 碑には、辞世「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」と書かれています。
 吉田松陰の辞世には、この歌のほか、家族宛に「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ なんと聞くらん」というのがあります。

大安楽寺 メトロ小伝馬町駅5番出口前

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2011年10月 6日 (木)

江戸検の王道!山本博文著『徳川将軍15代』発売!

15 徳川将軍家を「血」で読み解いていく画期的な本ができましたsign03
山本博文・東京大学史料編纂所教授著『徳川将軍15代~264年の血脈と抗争~』(小学館江戸検新書)です。

初代家康から始まった徳川将軍15代の歴史は大きく5つに分かれます。
①第2代秀忠から第4代家綱までが「宗家嫡流の時代」。
②5代綱吉から7代家継までが「宗家傍流の時代」。
③8代吉宗から10代家治までが「紀州系の時代」。
④11代家斉から13代家定までが「紀州系傍流の時代」。
⑤14代家茂、15代慶喜が「紀州系強化と初の水戸系の時代」

平和な264年間が続いた江戸時代ですが、将軍家の継承は建前としていた嫡子相続が乱れ、血筋が大きく混乱して、実は波瀾万丈だったのですね。

①から②への継承を例に具体的に説明してみましょう。

秀忠、家光、家綱まで、長男ではなくとも実子であった人物が跡を継いでいました。いろいろありましたが、まずは順当な継承でした。
ところが、第4代家綱は跡取りの男子がおらず、嫡男が継承していく血筋はここで途切れます。
家綱は腹違いの弟を養子にせざるをえなくなりました。家光の男子のうち、長男家綱の他に、三男の綱重、四男の綱吉が成人しています。
長幼の序でゆけば、綱重が跡を継ぐことになりますが、家綱臨終の2年前に綱重は亡くなり、その長男の綱豊が甲府藩主となっていたのです。綱重の嫡男であるので、綱豊も十分資格があります。
しかし、結局傍流の傍流にもかかわらず、館林藩主である四男綱吉が家綱の養子となって第5代将軍となりました。

宗家の血筋の大きく乱れ、傍流時代に入ったのです。そこからは何でもあり、といっては語弊があるでしょうが、抗争と遺恨が渦巻きながら、幕末まで徳川将軍家は継承が続いていったのでした。

この『徳川将軍15代』は、その「壮大な血脈ドラマ」を、余すところなく描いて興味が尽きません。
読むにしたがって、「そうか、この将軍の時に、この人物が出てきて、こんな事件が起きたのか」と、漫然と年表を読むより、良く頭に刻み込まれます。

江戸検受検者には「必読の書」ですね。

お薦めします。(彦)

2011年10月 4日 (火)

JR東日本「江戸検クイズラリー」まもなく締め切りです!

Dsc07242 JR東日本の協力を頂いて実施中の「江戸検クイズラリー~お江戸ぐるり再発見!」は、おかげさまで多数の方のご参加を頂いていますが、10月16日をもって各駅の掲示張り出しが終わります。(写真は日暮里駅)
ラリー参加をお忘れの方はお急ぎ下さい。
また、これからやってみようという方は、以下の要領でご参加下さい。

1. まず、JR東日本の首都圏の主な駅でパンフレットを入手して下さい(下にあるリンクページにはダウンロードできるボタンもあります)。
http://edoken.shopro.co.jp/news/110825_rally/index.html 

2. 『広重コース』か『富士講コース』のいずれかコースをお選びください。

3. 各コースには、江戸名所に因んだクイズがそれぞれ5問設定されていますので、ラリーポイントを回りながら、パンフレットに記載のクイズに解答します。

4. 1コース5問あるクイズの解答を記入し、はがきに切手を貼って応募ください(郵送料はお客様負担・はがき1枚につき1コースのみ有効)。

応募の締め切りは、10月31日江戸検文化歴史検定事務局必着です。

5問中、4問以上正解された方の中から抽選で合計170名様に賞品をプレゼントいたします。

今年の江戸検のお題「江戸の名所」にちなんだクイズラリーです。どうか楽しんで勉強して下さい。(彦)

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